やぶにらみコラムこぼれ話


フェラーリの”チーム・オーダー”に思う

5月12日の2002年F1第6戦オーストリア・グランプリ。
ゴール寸前、フェラーリ・チームの、いわゆる”チーム・オーダー”の一件が、日を追って論議を呼んできている。
この時点にチョッと戻ってみる。

かくゆう私もTV観戦で、もしかしたら、2台による編隊ゴールがあるかなと読んだ。
その場合、もちろん鼻の差で1位・バリチェロ、2位・シューマッハという順序である。
が、結果は違った。

もしかしたら、シューに道を譲る、というのもあるかもしれない。というのが頭をチラッとよぎったのも事実である。
その裏にはフェラーリ・チームだからという、先入観もあった。
結果は、ご存知のようにシューマッハ1位、バリチェロ2位というものだった。
フィニッシュ・シーンを見て私も、正直言って、後味が悪かった。
さらにシューが変な風にバリチェロを持ち上げていた(表彰台中央に立たせ、さらに優勝トロフィーをバリチェロに持たせていた等)のもいただけなかった。
2者にはピットからチーム・オーダーを指令したということだった。
シューマッハにプラス4ポイント(2位の得点6+4)を採らせるための措置であった。

嫌な感じがした大きなポイントは、誰が見てもその作戦が露骨に見えたことであったろうと思う。
テクニカル・ディレクターのロス・ブラウンは後で言っている。
「むしろ、誰にもチームの”命題”を再認識してもらいたかったのだ」と。
居直りとも聞こえる、彼の真意は次のようだと思う。
フェラーリ・チームは今、ドライバー部門とコンストラクター部門の両方を手に入れるチャンスである。
そのためには、ドライバー・チャンピオンの可能性が高いシューマッハに、プラス4を与える作戦を命令した、というわけだ。
と同時に、フェラーリ・チームの、F1レースに対する取り組み姿勢を、この際はっきりとしておきたかった、ということのようである。
(事実、ロス・ブラウンも、モンテゼモロ・フェラーリ社長も”F1はチーム・レースという認識で出場していると言う)

彼の言葉を借りるまでもなく、過去にもこのようなこと(チーム・オーダーを発令)は幾度もあった。
あるいは、このようなことは、ナンバー1,2を定めているチームの、いわば宿命とも言えるかもしれない。
反対に、ジョイント・ナンバー1方式を採っているチームには、基本的にあり得ない作戦ではある。
一般論としてモーターレーシングは、他のスポーツとは違う側面を持つているのは否定できない。
しかし原点は、ルールに則って競技者が持てる力をフルに発揮して競い合う(他のスポーツ同様)競技であり、正々堂々と闘いあってこそ成り立つスポーツなのである。

私はチームである以上、オーダーがあるのは当然だと思っている。
だが、100%近くの確率で勝利近くにあるドライバーに、このオーダーを当てはめてはならない、と言いたい。
当てはめることもチームの権利だとすると、モーターレーシングという名の(競い合う、ましてやドライバーに栄誉がかかっている部門=チャンピオンシップに)スポーツは、原則的に成り立たなくなる。
かのディレクター氏は、過去にも、他チームにも何度もあったとも述べている。

しかし、襟を正すということわざもある。
彼はこうも言っている。
「ゴール寸前で、あの形を採らなくて、バリチェロをいったんピットに呼ぶ方法だってあった」と。
なにをか況や、である。

もし、この一件を不快に思った人が多かったとすると(ゴール後、観客のブーイングにシューマッハはビックリして、前述の表彰式の行為をしたとの報道もある)、せっかく何年振りかで盛り上がっているF1ブームの火を消すことにもなりかねない、ことになるかもしれない、大事件とも言えよう。
あくまでも、ファン(の支持)あってのF1レースであることを忘れてはならないのだ。

逆説的な論法だが、フェラーリの独走を許す他チームの、今後の奮起をこの際、いっそう促したいところでもある。
Stop!the Ferrari 独走である。

13日、国際自動車連盟(FIA)は、批判の多い、この一件を重くみて、シューマッハ、バリチェロ両ドライバーと、チーム役員に、6月26日、パリで開く特別聴聞会(スポーツ評議会)に出席するよう命じたという。

”ティフォシ”の集合体である、マラネロのファン・クラブ会長が、この件で「本当にがっかりした」と言うコメントを発している。
フェラーリ・ファンの期待を裏切って欲しくないものである.

白井景 2002/5/13〜14 記


佐藤琢磨選手、
”フェラーリF1”に乗る

 
F399               F310

といっても、これは2001 Historic Automobile Festival in Japanでデモ走行したという話だ。
2002年2月9日、テレビ東京で放送された「ガレージライフ/佐藤琢磨F1で全開走行」の一齣。
この中で、日時は分からなかったが、かなり激しい雨が降る茂木(もてぎ)コースに、フェラーリF399に乗る佐藤琢磨選手がタイヤをふるわせながらコースイン。
何周か走行したもの。つづいてF310に乗り換えて走行。
BARホンダのテスト・ドライブをこなしてきた同選手ながら、茂木のコースは初めて(多分)、しかもフェラーリF1に乗るのも当然ながら初めてのこと。しかも天候は雨だ。
フェラーリ正規代理店のコーンズ&カンパニーが用意した、れっきとしたワークス仕様のフェラーリF1に乗っての走行は短時間ながら、実にみごとなものだった。
F399は1999年仕様、F310/2(B)は97年仕様でいずれもセミオートマ・ミッション。
佐藤選手はジョーダン・チーム入りしたグレーデッド・ドライバーだけに、”さすが”の走りっぷりであった。
このシーンを見ていて、本番でのジョーダン・ホンダEJ12を操る同選手がラップしてしまったのは、私ひとりではなかったのではないだろうか。
 2/11・記
photo:Ferrari World、いずれもシーズン中の写真



来シーズンに必勝を期す
BARホンダ・レーシング・チーム
2002年態勢発表!

2001.12.18


写真:左/Honda F1 Racing 中、右/BAR

「ラッキー・ストライク・ブリティッシュ・アメリカン・レーシング(BAR)ホンダ」は12月18日、
2002年の同チーム態勢とニュー・マシン「004」を発表した。
ホンダF1レーシングとBARの発表によると、
1.BARはエンジン供給をホンダと2004年まで契約を延長
2.ブリヂストン・タイヤ使用を3年間延長
3.チームの代表にデイビッド・リチャード氏が就任
4.ドライバーは2001年同様、ジャック・ビルニューブ(カナダ)とオリビエ・パニス(フランス)の両選手
5.テスト・ドライバーに2001年フランスF3選手権チャンピオンの福田良選手(写真右)を起用(他に外人3選手)
などとなっており、この日、ニューカーの「004」マシンもお披露めされた。
ニュー・マシンは、003からガラリと変わったものになるのでは、との思惑は外れ、
一見したところ、そう大きな変化は見られない。わずかにノーズ上面が途中で屈折していることと、
前後の空力付加物が増えたことぐらいか。(以上、実際に見た識者の話)
これは、なにを物語っているのだろうか。
ベーシック・マシンとして003は、かなり熟成されたと、チーム関係者は見ているということか。
1月中旬のテストまで答えを待たねばならない。
ただ、004に積まれるホンダ「RA002E」型V10ニュー・エンジンは、
さらに軽量、高出力、低重心のものとなったようで、
正直なところ、今シーズン同様、
ハイパワー・ホンダ・エンジンが004シャシー/ボディを引っ張るのではないか、
と今から思ってしまう。
邪推だといいのだが...。

BAR タイプ004主要スペック.
コンストラクション:カーボンファイバー、ハニカム・コンポジットストラクチャー
前後サスペンション:ウィッシュボーン、プッシュロッド ダンパー:コニ
ホイール:OZ製マグネ、前325mmワイド、後360ワイド
タイヤ:BSポテンザ・ラジアル ブレーキ:APレーシング
エンジン:ホンダRA002E型3リッター・V10
変速機:7速 クラッチ:AP製
ディメンション(mm):トレッド前1460、後1420
ホイールベース3050 全長4550 全高950 全幅1800



トヨタ、2002年用実戦マシン発表!
2001.12.17


トヨタTF−102

TFー101

「パナソニック・トヨタ・レーシング・チーム」は、12月17日、
2002年F1シリーズにチャレンジする実戦用マシン
「TFー102」を発表した。
(発表写真で見る限り)
長い間、各地のサーキットでテスト走行を続けてきた「TFー101」とは、
一見して別物マシンに見えるくらい変身している。
赤と白の塗装の仕方による違いも、視覚的には大きいが、
それよりもなによりも、むしろ女性的なソフトさを感じさせた
「TFー101」から、「TFー102」は、ガッシリした男性的強さの印象を受ける。
ウイングを含むフロント全体の処理、
低くなったノーズコーンとその延長上、低く小さくなったサイドポンツーン処理等に
デザインの大きな違いが見られる。
全体により低く、空気抵抗をより軽減した結果がニュー・デザインに現れていると
私は見た。
これらは、発表されたスペックからも見て取れる。
ホイールベースはTFー101から30mm(3090mm)、
トレッド前は46mm(1424mm)、
全長が73mm(4547mm)といずれも短くなったのである。
トレッド後は、逆に6mm伸ばした結果となった。
「TFー102」は、全体的にコンパクトに、より低くなったと言えよう。
これで直進性、難があると言われたコーナリング性能が格段に飛躍したと見た。
実戦での走りが今から楽しみとなってきた。
なお、パワーユニットは「RVX−02」となった。
(2998cc、90度トヨタV10)
変速機はトヨタ製6速セミオートマ。クラッチ、ダンパーはSachs製、ブレーキはBrembo製、
ホイールはBBS製マグネ(前13x2,後13x13.5)。
電気系はMagneli Marelli製。タイヤはミシュラン・パイロット。
重量600kg(ドライバー含む)と発表された。

(写真:パナソニック・トヨタ・レーシング・チーム)

追記/12月18日記
設計者(チーフ・デザイナー)のグスタフ・ブルナー氏(発表会での言)によれば、
「クルマのトラブルを避けるため、若干保守的な部分が残った」ということだが、
挑戦1年めなので冒険を避けたと、解釈すべきだろう。
識者によると、TFー102は、底部への空気導入を増すためハイノーズとし、
燃料タンクの搭載位置を変えたため、
シート・ポジションがこれまでよりうしろに配置された。
さらに、低く絞り込まれたリヤエンドなどが大きな特徴だとしている。
いずれにしろ、このTF102は、
1月初めのポールリカール(南仏)やバルセロナ(スペイン)のテスト走行を経て、
3月3日の第1戦/オーストラリア(メルボルン)
開幕まで、
さらに煮詰められることになる。



”トヨタF1チャレンジ”に思う
ブレーン・ストーミングの一発言


2002年、いよいよトヨタの”F1チャレンジ”が始まります。
私なりの感想を述べてみたいと思います。
と言っても、直接マシンを見ていないので、メカニズム、完成度等を記すことは出来ません。
では、なにを書くのか---

実は、私は1990年、某誌に「トヨタもしくはニッサンのF1チャレンジは近い」という記事を書いています。
この時は、大いなる期待感も含めての主観的まとめ記事でした。
が、事実はトヨタもニッサンも、ル・マン制覇の戦いのほうが先でした。
そして、このル・マン戦略は、ご承知のように、予想より長くかかっています。
いっぽうで今、トヨタの”F1チャレンジ”が始まろうとしています。
そこで、思い起こすことがあります。

それは、予想記事を書いた翌年、つまり1991年の秋、SWC最終戦を取材に行った九州・阿蘇のオートポリスで初めて
「トヨタTS010」を見た時、トヨタはF1を狙っていると、私は確信したことであります。
もちろんTS010は、スポーツカー選手権シリーズ用に作られたプロトタイプ・スポーツカーで、
事実、その後のル・マン24時間レースには、その改良型がチャレンジをし続けました。
ではなぜF1と結びつけたのか?

タイプ”TS”は、トニー・サウスゲート(Tony Southgate=下段参照)の頭文字を採ったものといわれて(と記憶して)います。
デザイナーとして長いキャリアを持つ、そのサウスゲートがトヨタ・デザイン・スタッフとして加わった作品がTS010というわけです。
TS010は、またプロトタイプ・スポーツカーの皮を被ったF1カー、という言い方も出来ると、私は思いました。
まさにF1シャシー(パワートレイン、足まわり等を含む)にボディ・カウルを被せたもの、という形容ができるマシンだったからです。
もう一度言いますが、このTS010を初めて見た時、私は、トヨタの最終目標はF1なのだと、その時思ったのです。

もっとも、この背景には、91年のSWCレギュレーションがNA3.5リッター、最低重量750kg、レース距離430km、燃料規制撤廃等、
F1マシン改良版が出場しやすくなるものとなっていました(興行的な面を重視)。
事実、後述するプジョー905,ジャガーXJRー14,メルセデスC291などが、新たに参戦してきたのです。
つまり、F1からSWCへ、そしてSWCからF1へ、どちらからでもはいりやすくする、という思惑がFIAにあったのも事実だと思います。
こういった事情以上に、私はTS010にF1マシンの”幻影”を見たことにもなります。
しかし、ここで後者のSWCからF1への挑戦ということが出来た場合を見てみましょう。

一般的に言えることは、
仮に、F1マシンの試作車(準備マシンの完成)が出来たとしても、即出場といけるほどF1は甘い世界ではありません。
マシンの熟成は当然のことですが--、
先ず、宣伝効果も大きいが、費用も莫大なものであります。
それ以前にF1に出場するには、メーカーの思惑が大前提です。漠然と出るわけがありません。
幅広い戦略が必要不可欠なのです。社内的コンセンサスも必要でしょう。
社会的環境も十分考慮しなければなりませんし、あらゆる意味で、メーカーの思惑とも合致しなくてはなりません。
長い準備期間と、かなりの制約を乗り越えて、初めてF1ワールドへ”Go”となるわけです。
そんなわけで(中で)、トヨタは(近い将来のF1出場を視野に入れながら)、
ル・マンを代表とする耐久レースに、当面のターゲットを絞ったのだと、私は思います。
実は、プジョー、ジャガー、メルセデスも同じような思想を持ったマシンでした。

それから約10年が経ちました。
そしてプジョーは、結果的にエンジン・ユニットのみのF1出場となりました。
ジャガー、メルセデスは違った形でF1に参戦しているのは、諸兄よくご存じのところです。
が、トヨタは違います。フル・パッケージの出場なのです。

話は横道に逸れますが、
現在のスポーツ・プロトによる耐久レースは、かつての耐久レースとは大幅に中味が違ってきています。
端的にいえば、スプリントの戦いの延長線上にあるといえます。
それだけ、エンジン特性でも操縦安定性(特にコーナリング性能)の面でも、
F1レース並みのシビアなものが要求されてきているからです。

逆に言うと、現在の耐久レース用マシンは、広い意味ではF1にも転用可能という言い方も出来るのです。
10年前のSWC思想が今、日の目を見ようとしている、といえるのかも知れません。
(2000年のル・マンあたりからは、また元の市販車ベースのマシン出場も多くなつてきましたが....)
ル・マンに、2位にはいる実績を残した[TS020」は、耐久レース用マシンでありながら、
スプリントでも十分戦えるマシンに進化していたのです。
極言すれば、TS020の皮を取ってレギュレーションに寸法を合わせた時、
F1マシンが一応出来上がる計算(あくまで計算上)にもなり得るのです。
(誤解ないようにいっておきますが、上記の話は可能性・演繹性の話であり、
2002年用F1マシン「トヨタAM−01」(TF101/RVX−01)は、ピュアーなオリジナルF1であることを申し添えておきます)

ただ、F1マシンは、ポッと出来、そして出場してくるわけでないことを、
またチャレンジングF1の参入には、必ずビッグな背景があることをいっておきたかったのです。
こういった背景の中に、トヨタはF1チャレンジを敢行した、と私は見たのです。
もちろん、マシンを直接見ていない以上、完成度も性能も、ましてや戦績予想など、おいておやであります。
が、”トヨタF1の挑戦”の楽しみ・期待感がそれらを大きく上まわるのは、
過去の実績から判断してのものであることも申し添えておきたいと思います。


以上の話は、あくまでも主観的見方であり、あるいは、邪推もはなはだしい、と叱られるかも知れません。
あくまでも、”トヨタF1チャレンジ”についての、ブレーン・ストーミングのひとつの発言と、読んでもらえたら本望です。
2001年11月10日/HP立ち上げ1年に当たって。
白井景


トニー・サウスゲートは、1961年、ローラ・カーズにはいり、一時ブラバムに移り、しばらくしてローラに戻っています。
そしてフォードGT、ローラT70の設計を手掛け、”ホンドーラ”といわれ、1966年イタリア・グランプリに優勝した、
ホンダRA300のデザイン・スタッフになっています。
その後彼は、イーグル・インディカー、BRMでP153/P160などのデザインを担当、
アローズ、オゼッラなどにも移籍し、1980年にはジャガーなどのスポーツ・プロトタイプカーにも手を染めている、
長いキャリアを持ったデザイナーです。


追記

「パナソニック・トヨタ・レーシング・チーム」は、
2002年F1シリーズの本番用マシンを12月中旬にドイツで発表する模様です。
型式が「AM−02またはTF102」となるのかどうか、
はたまたボディ・シェルはどう変わるのか?
ポール・リカールを始めとして長い期間のテストから、どのような本番マシンが登場するか、
私はすごく興味があります。
次の数字は、3チームの2001年用マシンの発表値を参考までに挙げたものです。
トヨタAMー01 全長4620  トレッド前1450  後1390  ホイールベース3120
BAR003  全長---  トレッド前1460  後1420  ホイールベース3050
ウイリアムズFW23 全長4540  トレッド前--  後--  ホイールベース--  
フェラーリF2001  全長4445  トレッド前1470 後1405  ホイールベース--
この数値で見る限り、「トヨタAM−1」はホイールベースが少し長く、トレッドが前後とも多少短いことが分かります。
全長も少し長い仕上がりとなっています。
(チョッとムリがあるとも思いますが....)一般的には、
仮にパワーが(例に挙げた)4車共同じだとすると、AM−1は、
直線では有利(エアロ・ダイナミックス効果を考慮に入れない場合)、
コーナリング(足まわりのセッティングを考慮に入れない場合)は不利だと思われます。
もちろんレーシング・マシンは、総合性能で決まるものなので、
あまり意味のない比較、という言い方も出来ますが、
フォーミュラカーは、すべてモノコック・シャシーで、パワーをミッドにマウントしているため、
ホイールベース、トレッド寸法が設計の基本となるのは自明の理なのです。
その上にボディ・カウルが載せられているわけです。
しかも現在のサスペンションは、すべてダブルウイシュボーンでプッシュロッド・タイプ。
つまり基本設計は、F1すべてがほぼ同一といっても間違いありません。
そのうえで細かい設計の差(多少の差でも寸法の差は大きい)、味付けの違いが大きな差となっているのです。
そこで何mm、何十mmの違いが、味付けと共に、そのマシンの”個性”となることがお分かり頂けたと思います。
AM−01(TF101)の寸法が、本番用でどのように変化するか、私は注目しています。
個性を強く打ち出すか、一般化するか、そのへんも興味あるところです。
**
(メカニズム解説のつもりではなかったので、舌足らずの点もあり、かつ、
駆け足過ぎた嫌いもありますが、要は「AM−01(TF101)」本番マシンに対しての、多大なる期待感がこれを書かせたと
ご理解頂きたいと思います。新車が発表されたその後に、再度触れたいと思っています)

2001.11.15記


佐藤琢磨選手
2002年、ジョーダン・ホンダF1のシートをゲット!


みごと2001年イギリスF3選手権シリーズのチャンピオンに輝き、来期の去就が注目されていた佐藤琢磨選手が、
10月9日、ついにジョーダン・チームの一員に選ばれ、ジャンカルロ・フィジケラ選手と共に2002年F1選手権を戦う
ことになった---実にうれしいニュースが飛び込んできた。これで来シーズンは、トヨタF1の参戦、ルノー・ワークスの
カムバックと肩を並べて(特に)日本のF1ファンには大いなる楽しみができた。BAR/ホンダのテスト・ドライバーもこ
なしていた同選手には、その技量を買って複数のF1チームからオファーがきていたのは、メディアのニュースで知っ
てはいた。が、それが現実となると、やはり一F1ファンとしてもうれしい。歴史物を中心としている私にとっても、21
世紀のF1の動向は大変気になっている。ホンダのさらなる活躍、トヨタの挑戦等と共に大いに注目し、応援したい。
各メディア、HP等で今、F1で最大の話題になっている佐藤選手だけに、同選手のプロフィールを私が紹介するの
は、ヤボだと思うので、今はがんばれ!佐藤選手
とだけ言っておこう。
佐藤琢磨選手:1977年1月28日、東京都出身。

                                   2001年10月9日 白井 景

 
photo:左/Honda F1 Racing 右/東京新聞

2001年10月10日午前11時30分(日本時間)、
ベンソン&ヘッジズ・ジョーダン・Hondaは、正式に佐藤選手との契約を発表した。
それによると、
「ベンソン&ヘッジズ・ジョーダン・Hondaは、2001年イギリスF3選手権チャンピオン、
佐藤琢磨選手と2002年シーズンから2年間のF1ドライバー契約の調印をした」
というもの。
ジョーダン・チームのボス、エディ・ジョーダン氏は、
2000年12月、ジョーダン・ホンダEJ10テストでの佐藤選手の走りに注目、
今年のイギリスF3での、同選手のめざましい活躍*とで契約を固めたというものだ。
*年間13ラウンド26レース(各ラウンド2レース)のうち12勝
佐藤琢磨選手は、
「よく知るジョーダン・グランプリのドライバーとして、参戦できることについて
非常に興奮しています。一日も早くチームとやっていきたいと思います。
今日の発表は、私にとって素晴らしい日になるでしょう」
と、その喜びをコメントしている。

***
ちなみに、日本人によるF1フル参戦ドライバーは、これまでに
中嶋悟、鈴木亜久里、片山右京、井上隆智穂、中野信治、高木虎之介
の各選手がいる。


2002年F1日程決まる!

Rd1. 3/3 オーストラリア :メルボルン
Rd2. 3/17 マレーシア:セバン
Rd3. 3/31 ブラジル:インテルラゴス
Rd4. 4/14 サンマリノ:イモラ
Rd5. 4/ 28 スペイン:バルセロナ
Rd6. 5/12 オーストリア:A1リンク
Rd7. 5/26 モナコ:モンテカルロ市街
Rd8. 6/9 カナダ:モントリオール
Rd9. 6/23 ヨーロッパ:ニュルブルグリンク
Rd10. 7/7 イギリス:シルバーストーン
Rd11. 7/21 フランス:マニクール
Rd12. 7/28 ドイツ:ホッケンハイム
Rd13. 8/18 ハンガリー:ハンガロリンク
Rd14. 9/1 ベルギー:スパ・フランコルシャン
Rd15. 9/15 イタリア:モンツァ 
Rd16. 9/29 アメリカ;インデアナポリス
Rd17. 10/13 日本:鈴鹿サーキット




厚さ2mm、されど2mm......*

 2001年2月26日、ホンダの記者発表の席上、同社の福井威夫専務が面白い話を披瀝した、と翌日の新聞が報じた。   
かいつまんだ内容はこうだ。
 「F1のノーズ部分にあるホンダのマークを今季はフラットにした」(レース関係者の話)というもの。
 昨シーズンまで、約10cm四方、厚さ2mmに施されたホンダのシンボル、赤の「H」マーク(鉄板)をボディカウル内に埋
め込んだ、というのだ。これは、わずか2mm。しかし空力上好ましくないものは、わずかなものでも(抵抗物は)一切省く。
というよりも、ホンダ・チームの今シーズンに必勝を期した意気込みの現れと見るべきだろう。
 似たような話を思い出したので、以下簡単に記す。

 
「シルバーアロー」の異名を頂戴することになるベンツのボディカラーに関する話である。
 1934年、当時のグランプリ・レースの車両規定では、車重は750kg以下(ドライバー、燃料、冷却水、タイヤを除く)と決め
られていた。アウトウニオンとすさまじい戦いを繰り広げていたベンツ・チームの主力マシンは「W25」。Dr.ハンス・ニーベル
とマックス・ワグナーの手になる野心作である。
 この「W25」がアイフェルレンネンの、レース前の車検で750kgを1kgオーバーしてしまったのだ。チーム関係者は思案
の末、ドイツのナショナルカラーである「白」のペインティングをそっくり剥がしてしまい、かろうじて車検をパスさせたのだ。レー
スにも、地肌のシルバー(無塗装)で出場、以後このシルバーがベンツのオリジナル・カラーとなったのである。


 パワフルで、軽量かつ機敏さが要求されるグランプリカー/F1マシン。軽量化ひとつをとっても、こんな苦労がある、というひと
つの逸話である。


1934年インターナショナル・アイフェル・レース。
タイヤ交換中の「W25」。ボディの白塗装を剥がし、地肌(無垢)のまま本番に臨んだ。

  
ダイムラー・ベンツ博物館パブリシティより
(1930年代のグランプリに関する記事は、ショートストーリーをご覧ください)



「TCS」復活に大いなる期待

 2001年F1シリーズは3月4日に、オーストラリア・メルボルン(アルバートパーク)で熱戦の火蓋を切ったが、ことしのシーズンは私にとって興味深いことが3つある。
 ひとつめは、ブリヂストン・タイヤ・オンリーだった世界にミシェラン・タイヤが戻ってきたこと。
これによって装着チームが2分され、したがってコンペティションがさらに熾烈になることが必至となる。
 ふたつめは、レギュレーションが大幅に変更になったこと。
前後ウイングの位置/枚数等の規制、25ミリ厚の衝撃吸収パネル装着義務付けをはじめとする、安全面での配慮等(ロールバーの強化、コクピット開口部拡大、タイヤの直径10ミリ拡大等)。
 そして3つめは、4月末のスペイン以降の採用決定だが、「TCS」が解禁になることである。
このTCSは、1993年に禁止となって以来の「Traction Controll System」の復活で、私などは禁止反対思考の持ち主で、このへんからF1テクノロジーに興味を失った経緯を持っている。
 現在の国産高級乗用車に取り付けられている、いまや一般的メカニズムである。電子制御システムで、駆動される側のリヤタイヤの空転(ロス)を防ぎ、パワーを効率よく路面に伝えるいわば近代兵器である。
 の「TCS」については、メカニズム解説をご併照頂きたい



ナショナル・カラーの始まりは? 

 ベンツのグランプリカーを通常「シルバーアロー」といっているので、”ドイツのナショナルカラーは白ではなく銀なのではないのか?”とのご指摘を受けた。
 そう思いがちだが、実はナショナルカラー誕生には、こんな裏話がある。それを紹介しよう。
 1900年(明治33年)にまで、時はさかのぼる。
 アメリカは、ニューヨークの大新聞「ニューヨーク・ヘラルド」のオーナー、ゴードン・ベネット氏が、それまでの都市間レースと違うレースを提唱した。国別対抗レースである。
 出走車は一国3台と決められた。名称は、「第1回ゴードン・ベネット・トロフィー・レース」だ。国別対抗レースである以上、一目でどの国のクルマか分かる必要がある。出走車のボディカラーを決めよう!
 こうして今日のようなナショナル・カラーの基礎が出来上がった。もっとも近年は、スポンサー・カラーのマシンのほうが多いくらいだが.....
 ブリティッシュ・グリーン、ジャーマン・ホワイト、フレンチ・ブルー、イタリアン・レッド(最初はアメリカが赤)という具合に。ナショナル・カラーはこの流れを汲んでいるのである。
 したがって、ドイツの場合、最初は白だったが、1934年の一件(上記参照)以来、銀色に変えた経緯があるのだ。
 ちなみに第1回国別対抗レースは、フランスのパナールが勝ち、翌年の同レースはフランスで開催されている。
 わがホンダが、F1レースに挑戦しようとプロトタイプを製作した当時、ボディを金色にしたきれいで、かつ精悍なF1マシンがあった。
 このカラー(ゴールド)を気に入った関係者がFIAに申請したところ、この色は南アフリカのもので使えず、しかたなく(?!)現在の、赤と白のツートーンとなったいきさつもある。


追悼!
ミケーレ・アルボレート選手

日本でもファンが多かった元F1ドライバーのミケーレ・アルボレート選手が4月25日、レーシングカーをテスト中クラッシュ、死亡したと27日朝刊で報じられた。
記事によると、ベルリン郊外のコースで、ル・マン24時間レース(6月)に出場予定のアウデイR8(スポーツ/プロトタイプカー)をテスト中、横転事故を起こして亡くなった(44歳)、ということである。
同選手は、1981年にティレルでF1デビュー、84年から89年にかけてフェラーリ・チームに所属。1985年にはアラン・プロストに次いで世界ランキング2位となった。通算194戦で5勝の成績を残した後、95年からスポーツカー・レースに転向、ル・マンは1997年にポルシェで優勝、昨年もアウディで3位にはいっている。


   
フットワーク時代(1991年)のアルボレート選手とFA12/フォード。
「1991 FUJI TV 日本グランプリ」プログラムから

ミケーレ・アルボレート選手(Michele Alboreto)は、1956年12月23日、イタリア・ミラノの出身。
1970年代に、フォーミュラ・モンツァ〜フォーミュラ・イタリア〜フォーミュラ3のステップを踏み、1979年イタリアF3チャンピオン、1980年ヨーロッパF3チャンピオンとなった。
翌1981年、ティレル・チームからF1デビュー(第4戦サンマリノ・グランプリ)。
この年は、得点を挙げられなかったが、翌82年は3位・2回、4位・2回、6位・1回と入賞を重ね、最終戦のアメリカ・グランプリでは(ラスベガス)、ティレル011(ウイングカー)で初優勝を遂げている(総得点25/ランキング7位)。
1983年5月にも同選手は、ティレルで東アメリカ・グランプリ(デトロイト)に再度優勝したが、これ以外のレースではパッとせず、翌1984年には名門フェラーリ・チームに移籍した。
フェラーリ126C4を駆ったアルボレート選手は、第3戦ベルギー・グランプリの優勝を含めトータル30.5ポイントでランキング4位となる。
同選手のF1ドライバーとして最も華かなシーズンとなった1985年(フェラーリ156/85)は、
第1戦ブラジル:2位
第2戦ポルトガル:2位
第4戦モナコ:2位
第5戦カナダ:優勝
第6戦・東アメリカ:3位
第8戦イギリス:2位
第9戦ドイツ:優勝
第10戦オーストリア:3位
第11戦オランダ:4位
以上の入賞でポイント53を挙げ、マクラーレンのアラン・プロスト(73点)に次いでランキング2位となった。

メカニズムに精通し、温和な人柄であったアルボレート選手のファンは多い。
ご冥福をお祈りいたします


「モーターレーシング歴史館」によく登場する
名称についての”蘊蓄”



「mercedes」の名前の由来」



photo::MERCEDES-BENZ JAPAN
COMPANY PROFILEより


1926年、自動車の技術革新を競う宿命のライバル、ダイムラー社とベンツ社が合併、社名をダイムラー・ベンツ(株)、車名をメルセデス・ベンツとしてスタートを切った。
”メルセデス”という車名は、20世紀始め、ダイムラー社の総販売権を持ち、自動車の将来に大きな期待を抱いていたオーストリア・ハンガリー帝国の領事、エミール・イエルネッタの美しい娘、”メルセデス”の名に由来している。
技術陣にはニーベル、ナリンガー、ポルシェ等の名だたる博士を揃え、スーパーチャージャー装着のSシリーズ、「W125」などを製作、次々にサーキットへ送り出している。



「タイレル」か「ティレル」か?
ドライバー名に限らず、車名も、呼びかたは難しい。BARの前身、ティレルもタイレルと表現する人も多く、いったいどちらが本当なのか? そう思った人もけっこういるのではないだろうか。
私自身、1975年に富士スピードウエイで行なわれたF1inJapanか、翌年のF1日本グランプリのどちらだったか、記憶ははっきりしないが、それはともかく来日した、チームの総帥ケン・ティレル(ken Tyrrell)氏に、本当はどう発音するのか、そのことを聞いたことがある。
その時の答えは「タとティの中間かな? どっちかというとティに近いかな」と言って微笑んでいたのを思い出す。
ということで、それこそどちらでもいいのだが、私はティレルと表現している。


ケン・ティレル氏とコルセア・ウイングの「タイプ020」(中嶋悟選手)。

「ケン・ティレル氏」逝去


そのケン・ティレル氏が亡くなった。
2001年8月25日午前5時30分(現地時間)、イギリス・サリーの自宅で息を引き取った(膵臓癌)ということだ。享年77歳であった。
ご冥福を心からお祈りいたします。
氏は、1968年(昭和43年)、マトラのセカンド・チームとしてF1グランプリに参戦。
70年からはオリジナル・マシンを携え、ティレル・レーシング・チーム名でエントリー、
以降、1998年にBARにチームを譲渡するまで第1級チームの総帥として活躍した。
1971年には、コンストラクターズ・チャンピオンに輝き、
同マシンを駆ったジャッキー・スチュワート選手は1971,73年のドライバーズ・チャンピオンとなっている。
日本とのつながりも深く、中嶋悟(1991年)、片山右京(1993〜96年)、高木虎之助(1998年)の各選手も、
かつてティレル・レーシングから出場したことがある。
またホンダ(1991年)、ヤマハ(1993〜96年)の両エンジンがティレル・マシンに搭載されたこともあり、
日本のF1ファンからも熱い応援がチームに送られていた。
6輪マシン、コルセア・ウイングなど、斬新なアイデアを次々に採用し、グランプリを盛り上げる役割も大いに評価された。
ティレル・レーシング:418戦、23勝(歴代7位)


追悼!
ビットリオ・ブランビラ氏

5月26日、ローマ発ロイター電が伝えるところによると、元F1ドライバーのビットリオ・ブランビラ氏が自宅で芝刈り中に心臓発作を起こし死去したと報じた。
享年63歳だった。
ブランビラ氏は、生涯74レースに参戦、優勝は、豪雨途中で打ち切りとなった1975年3月のオーストラリア・グランプリ1戦のみ(ポイントは半分)。
当時37歳だった氏は、自身でも予想外だった優勝を喜び、両手を高々と挙げてゴールイン。
勢い余ってマシンがスピン、クラッシュバリアに突っ込む一幕を演じている(本当かどうかは.....)。

 
ビットリオ・ブランビラ選手と
スタートを待つ彼のマーチ732BMW(アルビ・グランプリ)。


つい最近立ち上げたPhoto Essay/忘れ得ぬ一枚の写真(アルビ/風戸裕選手)
の項で取り上げた、ヨーロッパF2選手権「アルビ・グランプリ」(1973年9月16日)の優勝者は、実はビットリオ・ブランビラ選手(Vittorio Brambilla)だったのである。
ブランビラ選手は、イタリアの工具メーカー「Beta」をスポンサーに持ち、エンジン・チューン(BMW)も自分のところで行なう
プライベート・エンター。
その彼はマーチ732/BMWを駆り、ジャン・ピエール・ベルトワーズ、ヨッヘン・マス、ロニー・ピーターソン、ジャン・ピエール・ジャブイーユ、ジャン・ピエール・ジャリエ、トム・プライス等々のワークス勢を相手に公式練習、予選を通して終始トップの強さを発揮した。
そして迎えた本番。
ブランビラ選手はスタートから飛び出し、56周(1周3.636km)・203.616kmの全レースを、一度たりとも首位の座を明け渡すことなく完全制覇したのである。
私は、このレースを取材していて、同選手の強さと共に、プライベート・エンターでもワークスを破ることの秘密をかい間見たような、そんな気分になったのを覚えている。
そして同選手は、このF2シリーズの後、F1へ進んだわけだが、やはりマシンはマーチ、スポンサーはBetaと変わらなかったのを見ても、同選手の気骨さがうかがえたものである。

ご冥福をお祈りいたします


AAR
「オール・アメリカン・レーサーズ」


1967年第7戦・西ドイツ・グランプリでのイーグル・ウエスレークV12.
photo:HONDA MOTOR

「白井景 執筆集/世界の24時間レース」に、ナショナリズム台頭の例として、アメリカのフォード戦略について若干触れた。
(私が思うに)この事例の場合、いい悪いではなく、ひとつの選択肢をフォードが選んだわけで、
1966年から1969年にかけて制覇したその中に、オール・アメリカン(67年)という形があったのである。
実は、F1の世界にもオール・アメリカンという例があった。
1965年に、ダン・ガーニーとキャロル・シェルビー(グッドイヤー・タイヤが支援)が組織したもので、
やがてシェルビーは組織を離れたが、ガーニーはサセックス・ウエスレークに本拠を構え、
「アングロ・アメリカン・レーサーズ」として事業展開を始めたのだ。
デザイナー、レン・テリーの手になるイーグルT1Gは、その名のとおり、鷲のくちばしのようなノーズ・コーンをデザイン上の大きな特徴とした。
濃紺のボディに積まれたエンジンは、1966年フランス・グランプリに5位入賞した時は2750cc・4気筒コベントリー・クライマックスだったが、
翌67年グランプリ・シーズンには、ウエスレークV12となっていた。
ハリー・ウエスレークがAARのために開発した3リッター・V型12気筒エンジン(ガーニー・ウエスレークの名称)は、
ボア72.8xストローク60mmの2997ccの総排気量から当初364ps/9500rpmの出力を生み出した。
ノン・チャンピオンシップの「レース・オブ・チャンピオンズ」(ブランズハッチ)に幸先よく優勝、
そして世界選手権/第4戦ベルギー・グランプリ(6月18日/スパ・フランコルシャン)でも、優勝(ドライバーはいづれもダン・ガーニー)を勝ち取っているのだ。
しかし、イーグル・ウエスレークV12は、この後カナダで3位にはいったのを最後の得点として、次第にその名は消えていった。
ただアメリカを舞台としたUSACでは、67、68の両年大活躍している。
いづれにしてもAARの、このイーグル・ウエスレークF1は、独特のボディ・デザインと美しいエンジンが合体した、長く記憶に残るマシンであったことに異論をはさむ人は少ないだろう。


ガーニー・ウエスレークV型12気筒エンジン。
photo:HONDA MOTOR


「このスポーツに危険はつきもの」
クルサードがBBCに語る




ベルギー・グランプリ(9/2)でルチアーノ・ブルティ(ブラジル)が、レース中、タイヤ・バリヤーに突っ込み、大怪我を負ったというニュースは、諸兄よくご存じのことと思う。
幸いにもブルティは、2ヶ月の要治療ということで(今シーズンは不出場の模様)、関係者はホッと胸をなで下ろしていることであろう。
だが、「Yahoo! Sports」を見ていたら(9月6日、クラッシュネット・ジャパン)、
「このスポーツに危険はつきもの=とクルサード」という記事が眼に付いた。
内容は、次のようである。
マクラーレン・メルセデスのデビッド・クルサードは、ベルギー・グランプリでのルチアーノ・ブルティの恐ろしいクラッシュに対して、
FIAが拙速な対応をとらないよう求めた。彼はBBCの取材に次のように答えている。
「危険は、われわれのスポーツの一要素だ。コーナーをすべて低速に作り変えることなどできないし、それをやったらF1ではなくなる。
オー・ルージュのようなコーナーは難しいし、危険だが、それこそがスパだ。
ぼくらがすべきことは、ラン・オフ・エリアを可能な限り広くするよう訴えることだ。
ドライバーのけがの可能性を、すこしでも小さくするためだ。これは、トラックの改修よりも大切なことかもしれない。
そもそも、この仕事に危険はつきものなんだ」
* *
まったく、私も同感である。
このクルサードの発言の裏になにがあったのか、なかったのかは、私は知らない。
だが、なにもない中に、あらかじめ牽制の意味で発言したとも考えにくい。
いずれにしろ、過去の例から見て、死亡事故、重傷を負ったレースの後は、すぐに関係者(モータースポーツ以外の報道も含む)からヒステリックな意見(時にはレース中止論も)が飛び出し、挙げ句の果ては、すぐに、解せないレギュレーションの変更という例もいくつもあった。
たしかに、スパのコースの危険性は、これまでも言われてきた。
コースの改修は必要かも知れない。
だが、クルサードが言うように、安易な拙速な、対応だけはすべきでない。
確かにドライバー、オフィシャル・観客を含むすべての関係者の安全が最優先されるべきである、。
だが、誤解を恐れずに言わしてもらえば、いっぽうで、クルサードやジャック・イクス氏の格言のように、危険を負う自由をドライバーは持っていることも、また確かなことだと思う。
モータースポーツは、いい悪いはともかく、この危険性を併せ持ったスポーツであることを、私たちも忘れてはいけない、と思うのだ。
そういったことを前提においての対応なら、反対するいわれはない。
2001・9・10 白井景

(写真:メルセデス・ベンツ・ジャパン