2002/December
Renault A442/443


1970年代前半の、ル・マン常勝軍団はポルシェとマトラであった。
そこに割ってはいったのが、イエロー・カラーのルノー・ワークスだった。
写真は1977年ル・マン出常時の「A442」。
グループ6・2座席レーシングカー仕様のマシンが主役の、当時のル・マン24時間レースは、オープン・タイプが花盛りだった。
77年は、ポルシェ・マシンに、その栄光の座を譲ったものの、翌78年には万全を期して臨んだルノー・チームに凱歌が挙がった。
ルノー公団のレーシング部門、エキップ・ルノー・エルフ・スポーツから4台のワークス・マシン(A442A/B、A443)が持ち込まれたのだ。
いっぽうのポルシェ・ワークスは、「936/78」と「935」。
30万人が見守る中で、ガップリと4つに組んだ両チームの戦いは熾烈を極めたが、最後に笑ったのはピローニ/ジャッソーが乗るルノーA442Bターボであった。
2〜3位はポルシェ936ターボ、4位にルノーA442Aターボ、5〜8位ポルシェ935/78という結果であった。

photo:elf/SS Ltd.


2002/November

「モーターレーシング歴史館」は、お陰様で2周年を迎えることが出来ました。
改まっての企画は、特に用意していませんが、せめて毎月更新しているこの欄だけでも、なにか変わったものがないかと考えたのが、以下に紹介する”6輪カー”でした。
現在ほど、レギュレーションに規制が敷かれていなかったためか、わりかし自由闊達に、デザイナーの腕が表現出来た時代でもありました。
今後、少しずつでもこの手のものを紹介していきたいとは思っています。
これからも「本館」「新館」共々ご贔屓の程、よろしくお願い申し上げます。
2002/11/1 白井景

   
(Unique Machine/Special Virsion)
Ferrari 6wheeler

Williams 6wheeler


いつかは、紹介しなくてはならないと思っていたマシン群。
ティレルの6輪カーはあまりにも有名で、当サイトの「異色マシン紹介」のページでも、当然ながら採り上げている。
(マーチの試作6輪カーの写真も併載)
しかし、ここで掲載したフェラーリとウイリアムズの6輪カー(ティレルP34出現後)は、皆さんも、これまで目にする機会が少なかったのではないかと考え、この機会に掲載させてもらった。
残念ながら、試作段階のスクープ的写真なので、両コンストラクターのサイトでも見ることはまず出来ないと思う。
当サイトが、「モーターレーシング歴史館」とうたっている以上、パスするのもなにか歯が欠けている気がするので、この際思い切って、この欄で紹介させていただいた。
そんなわけで、2点がかつて掲載された日本の「AUTO SPORT」誌から、勝手ながら転載させていただいた。
歴史の一ページという観点から、あえてお許し(著作権上)願う次第である。
写真では分かりにくい嫌いもあるが、フェラーリは前2輪/後が通称ダブル・タイヤと呼ばれる4輪レイアウト。
いっぽうウイリアムズのそれは、レイアウトがマーチと同じスクェア型4輪である。
ティレルを除いて、いずれも予選・決勝を通じてグランプリ・シーンに登場することはなかった。
プロトタイプそのもののF1マシンであった。


2002/October
1967 Make’s Championship Series.
Line Up 9.


  Ford Mk4


チャパラル2Fから始めた1967年周辺のメイクス・チャンピオンシップ・シリーズ。
一応のトリとしてワークス・フォードの大本命、”Mk4”を登場させました。
4回続いたポルシェ・シリーズのその他のマシン、あるいはルノー・プロトなど、別の機会に、または別のセクションで登場してもらうつもりでいます。

さてワークス・フェラーリと1967年に、激しい選手権争いを繰り広げたフォードだが、この戦いはこの年のル・マン24時間が特に熾烈で、大挙繰り出したフェラーリP4勢を相手にすさじい攻防戦を展開した。
この結果、わずかの差でフォード・マーク4が栄冠(1,4位、フェラーリP4・2,3位)を握り、前年に続く2連勝となっている。
写真のMk4は、67年ル・マン優勝車で、ダン・ガーニーとA.J.フォイトが交互にステアリングを握り、総走行距離5232.900kmを平均218.030km/hの猛スピーで走り抜いての勝利であった。
ミュルサンヌ(当時の名称)の直線スピードは340.05km/をマークしている。
ちなみに全走行の燃料消費率は2.301kmであった。
話は前後するが、アメリカの威信を賭けたフォードのル・マン・プロジェクトは”GT40”〜”Mk2”、そしてこのMk4へとマシンが進化している。
Mk4は、キャロル・シェルビーのスーパーバイズのもと完成したもので、フォード90度・V8・OHVの総排気量は6900cc(ボア107.7xストローク96mm)のビッグ・エンジンを搭載している。
圧縮比10.75で530ps/6200rpmを発生させていた、当時のモンスター・マシンであった。

(photo:Color Treasury 0f RACING CARS)


2002/September

1967 Make’s Championship Series.
Line Up 8.
Porsche 908 Open Model


type908/01(1969年)

真紅の908/MK3で富士スピードウェイの30度バンクを駆け下る風戸選手(左)。
写真右は表彰台上の風戸選手と(中央)左・生沢徹、右・田中弘の両選手。

先月は、908のロングテール・モデルを掲載しましたが、
国内ファンにとっては、むしろ908はオープン・モデルのほうが馴染みが深いかも知れません。
タイプ908/01は1969年、8気筒空冷フラット2997cc・310馬力エンジンを907ボデイ(アルミ・チューブラー・フレーム)に搭載した(ワークス・マシン)もので、車重は630kgに仕上がっていました。
そして、この908オープン・モデルは同年10月10日、海を渡り、なんと日本グランプリ(富士)に出場しているのです。
ハンス・ヘルマンと田中健二郎選手(タキ・レーシングから出場)が乗り込み、ビッグ・マシンと堂々と渡り合い、総合7位・クラス4優勝の栄誉を勝ち取っているのです。
さらに1971年10月10日の「富士マスターズ250キロ・レース」に、風戸裕選手がこの発展型マシン(MK3)を駆り出場、みごと優勝を遂げているのです。


2002/8 August
1967 Make’s Championship Series.
Line Up 7.
Porsche 908 Lang Heck




917シリーズは、ひとまず終え、次に進むことにしました。
実は、次に進むというより908は、917の1年前に活躍していたのです。
908は、3リッター・フラット8エンジンを、(パイプによる)スペースフレーム上にミッドシップ・マウントしたものです。
もちろん冷却は、ポルシェお得意の空冷(強制)です。
908シリーズもバラエティに富んでおり、いろんなモデルが存在しました。
採り上げたのは、私が最も好きなロングテール・モデルとさせてもらいました。
写真上は、1968年のル・マン24時間に3位にはいったロルフ・ストメレン/ヨッヘン・ニーアパッシュ組の908LM。
このシーズンのマニュファクチャラーズ・チャンピオンシップにポルシェは908と907で2位となりました。
写真下は、翌69年の908ロングテール・モデル。
スパ1000kmにジョー・シファート/ブライアン・レッドマン組で優勝、併せてこの908モデルでみごと選手権を獲得しました。
photo:いずれもAUTO SPORT YEAR ’69と’70(Joe Honda氏撮影)による。


2002/7 July
1967 Make’s Championship Series.
Line Up 6.
Porsche 917K
(GULF Porsche)


またまた予定変更となって申し訳ありません。
映画”栄光のル・マン”でおなじみのガルフ・ポルシェを紹介しないとポルシェ・ファンにお叱りを受けそうなので、今月は勝手ながらこの写真を登場させていただきました。
純白のレーシング・ポルシェも、もちろん素晴らしいが、ROTHMANS PORSCHE、GULF PORSCHE、MARTINI PORSCHE...等々の美しいボディ・カラーリングも忘れることはできないところだ。
(勝手ついでに、917シリーズを初めとするポルシェのスポーツ/プロトタイプカー・シリーズは、あるいはこの先多少続けさせてもらうかも知れません。私が好きなせいもありますが、いうまでもなくレーシング・ポルシェは、この手の傑作マシンが数多く存在したからに他なりません。その場合は、あしからずご了承ください)
ところで、冒頭の、スティーブ・マックィーン扮する主人公がマシンに乗り込み、心臓の鼓動を効果音に採り入れスタートさせていく、あの傑作シーンに選ばれたマシンが、このガルフ・ポルシェ917Kだったのは、ポルシェ・ファンにはよく知られた話であろう。
1971年シーズンのメイクス・チャンピオンシップ・シリーズで同マシンが、ライバルのフェラーリ312P(オープン2座席、F1から転用した3リッター・フラット12エンジン搭載車)と熾烈な戦いを繰り広げたのは、スポーツカー・ファンには記憶に新しいところではないだろうか。
4.5リッターで始まった917は、この頃にはほぼフルスケールの5リッター(4.9リッター)となっているのを付記しておこう。
そして917は、ロングテール・モデル(ル・マン・テストデー)などのバラエティを混じえながら翌73年にかけて、CAN−AMマシン(PA〜917/10)、インターセリエ・モデルへと変身していくのである。


2002/6 June
1967 Make’s Championship Series.
Line Up 5.

Porsche 917


今月はレーシング・ポルシェのうち、910と917を採り上げる予定でしたが、構成上917に絞らせてもらいました。
1967年という年から言うと910シリーズが該当し、917は1969年なので順番は逆ということになりますが、910およびその周辺マシンは次の時に紹介いたします。

ポルシェ917という名前は、1969年秋の日本グランプリ・レースに、ジョー・シファート選手(スイス)がドライブし、話題をさらったマシンとして記憶している人も多いと思う。
レギュレーションで、リヤの可変ウイング禁止(したがって固定)というハンディを負いながらもニッサンR382、トヨタ7に伍して堂々の戦いを挑んだ新鋭ポルシェ917だったが、この時のレース結果は総合6位に終わっている。
そもそも”917”は、グループ5スポーツカーのホモロゲーションを取るために、1969年春、ポルシェ・ワークスが規定数の25台を一気に作り上げ、(そのロングテール・モデルを工場にズラリと並べ)世界をアッと言わせたいわくつきのマシンである。その姿からホワイト・ジャイアンツと異名を取った。
この年からメイクス選手権が、5リッター・エンジン車が事実上メインとなる(グループ5/スポーツカー=5000ccまでの25台以上生産車、グループ6=プロトタイプカー/生産義務なし3000cc以下車)ことになり、フェラーリ512S、フォードGT40、ローラT70群に対抗すべく、ポルシェ史上初の大排気量車の開発となったのである。
ポルシェ917は、アルミによるパイプフレーム・シャシー上に強制空冷水平対向12気筒4494ccエンジンを載せ、当初出力520馬力を発生させた。
917の数ある特徴の中に、前述の自動可変ウイングも挙げられ、これはリヤ・ウイングに切られた左右の小さなフラップがコーナリング時に上下して、マシンの挙動制御に多大な効果をもたらしたのは広く知られるところである。、
メイクス選手権用917は、ロングテール・モデル(LH/Langheck)、ショート・モデル(K/Kurz)、オープン・モデル(スパイダー)が、2年間通算で43台作られ、917シリーズはやがてCAN-AMレース仕様の917PA、917/20、917/10、917/30へと引き継がれていったのである。
photo:2002/2月からと同じ。


2002/5 May

1967 Make’s Championship Series
Line Up 4.
Matra630Matra-SimcaMS670
 

アルピーヌ・ルノーと共に純フランス製マシン(プロトタイプ・スポーツカー)として、その名を馳せた”マトラ”。
懐かしく感じる人も多いのではないだろうか。
そもそもスポーツカーによる世界メーカー選手権が制定されたのは1953年のこと。
それ以降、1974年までの22年間にフェラーリが12回、ポルシェが5回、そしてマトラが2回の栄誉に輝いている。
そのマトラの2回の王座獲得は、1973年と74年のこと。
特に73年はル・マンに初勝利を挙げ、シーズンの最後までフェラーリと競り合ってのチャンピオンだけに特筆に値しよう。
その時の主役が”タイプMS670”であった。
MS670の原型は1966年まで遡る。
2リッターのBRMエンジンを載せたタイプ620がそれで、
翌67年に630(V8エンジン搭載)に進化し、さらに68年には自社製のV12エンジン(F1の転用)が換装されているのだ。
しかしチャンピオンになるには、それからさらに5年の歳月を費やしたことになり、苦闘の年月とも言えた。
このマトラの物語は、後日改めて掲載したい。
MS670に搭載されたMS72型V12・2993ccエンジンは、
ルーカス・インジェクション装備で、72年が450馬力、73年が470馬力,そして74年仕様では480ps/1万1200rpmまでアップされていた。

来月はポルシェ910と917を掲載します。


2002/4 April

1967 Make’s Championship Series
Line Up 3.

 Alfa Romeo T33 & T33R
 

写真左は、1967年に誕生した当時の、文字どおりアルファロメオのプロトタイプ・スポーツカー。
クーペ・ボディに2リッター・V8エンジンをミッドマウントしていた。
出力はインジェクション装備で250馬力を発生させていた。
写真右は、進化したアルファロメオのグループ6カー(プロトタイプ・スポーツカー部門)で、タイプは”T33R”となっている。
1969年には、排気量を3000ccにアップして総合優勝を狙うまでになっており、アンドレア・デ・アダミッチがドライブして最初の勝利を挙げている。
出力は400ps/9000rpmであった。

photo:Color Tresury of RACING CARS


2002/3 March
1967 Make’s Championship Series
Line Up 2.

Ferrari 330P4&Dino
  

 
1967年のメイクス(チャンピオンシップ)・チャンピオンカー、ワークス・フェラーリ”330P4”(左)。
P4は前年のP3の流れを汲んだプロトタイプ・スポーツカーで、排気量3967ccのV12・36バルブ・DOHC・440〜450ps/8000rpmのエンジンを搭載していた。
ロレンツォ・バンディーニ/クリス・エモン、マイク・パークス/ルドビコ・スカルフィオッティ組がこのマシンに乗り、デイトナ24時間(写真)やモンツァ1000kmなどを制覇(バンディーニ/エモン組)し、ライバルのフォード陣営(マーク2)を、その軍門に下している。
330P4の寸法は全長4170x全幅1780x全高950mm。
サスペンションは前:ダブル・ウィッシュボーン、コイル/ダンパー・ユニット、後:上Iアーム、下逆Aアーム、コイル/ダンパーユニット、パラレル・ラジアスアーム。
写真右はワークス・ディノで、1987cc・65度V6・DOHCエンジン(230〜240馬力)を搭載していた。が、ディノの本番での華々しい活躍はない。スモールP4とでも言えばいいのだろうか。
(photo:下と同じ)


2002/2 February
1967 Makes’Championship Series  
Line Up 1.

Chaparral 2F Chevrolet
予定では今年前半(6月まで)は、1967年近辺のメイクス・チャンピオンシップ出場車(スポーツ&プロトタイプカー)を採りあげていこうと思っています。
来月以降フェラーリ・ディノ&P4、アルファロメオ33-3,アルピーヌ・ルノー3000,フォードGT40&MK4などを断片的に掲載する予定です。

 
photo:「Color Treasury of RACING CARS」

1回めは、当時、新進気鋭のデサイナーで発表ごとに話題を呼んだアメリカ人のジム・ホール氏が手掛けた”チャパラル2F”(シャパラルともいいます)です。
チャパラル・レーシングカーは、元々ナッソー・スピードウイーク(アメリカのリゾート地)に出場していたのが始まり。
やがてCAN−AMシリーズ、そしてメイクス・チャンピオンシップへと、その舞台を変えていったのです。
1967年ブランズハッチ(イギリス)500kmレースに出場、ウイナーとなった上記マシン”2F”は、前モデルタイプ2Dの発展型で、
そびえ立つ巨大なウイング(スタビライザー)が特徴のマシン。
しかも、このウイングは迎角がコクピットから調節可能なもので、日本のメーカーおよび世界のメーカー(プロトタイプ・スポーツカー設計者)にも、大きな影響を与えました。
さらに、このマシンは驚くなかれ、ミッションがマニュアルではなく、3速のAT(ハイドロリック・ギヤボックス)だったのです。
このシステムは燃費こそよくありませんが、長距離ドライブにはうってつけでした。
パワーユニットは、ムーン・チューンのシボレーV8で、総排気量は6996cc(ボア107.9xストローク95.5mm)から570ps/6500rpmの出力を発生させています。
570馬力と3速ATで、車重830kgのボディを最高速320km/hまで導きました。


2002/1 January
1959 Season F1 ”Poster” a la carte

新年の「Monthry Gallery」1回めは、果たして何にしようか? ない頭を絞った。
結果、小生のホームページらしい(歴史館)ものにしようと、資料をあさった。
これがいい、と決めたのが、以下の、1959年シーズン・F1ポスター群であった。
あまり眼にすることがないのでは、と思って決めた。
残念ながら、すべて白黒なのは新年らしくはないが、当時(昭和34年)の社会環境からいって、
これも仕方ないかなと思いつつ掲載した。ご勘弁いただきたい。
「GRAND PRIX」誌とLouis T.Stanley氏に多謝。


*2002-5/6 ポスター 一枚削除

1959年の「F1世界選手権シリーズ」は、
グランプリが再開されてちょうど10年めにあたる節めのシーズン。
マヌエル・ファンジオ、マイク・ホーソンなどの選手が引退し、
ジャック・ブラバム、スターリング・モス、フィル・ヒル、ブルース・マクラーレンなど、
いわゆる第2世代の各選手が覇を競う時代になっていた。
マシン面でいえば、それまで散発的に出場はしていたが、この年、クーパーが
繰り出したミッドシップ・エンジン搭載車が選手権シリーズをリードし、
けっきょく、これに乗ったジャック・ブラバムが優勝し、
同じマシンに乗ったスターリング・モスがランキング3位となった。
以後ミッドシップカーが本流となっていく。
写真はジャック・ブラバムが操るクーパー・クライマックス。



2001/12 December
1964 Sport&PrototypeCar Race

 
1964 Le Man’s 24hrs Start(left)&Winning Machine/Ferrari275P(right). photo:shell

 
   F1による「Drivers’ World Championship」に対して、当時は、
GT/GTプロトタイプカーによる選手権レースを
「World Constructors’ Championship」と呼んでいた。
このシリーズには、ル・マン24時間レースを筆頭に、
ニュルブルクリンク1000kmレース、タルガ・フロリオ、
セブリング12時間レースなど、メークス・チャンピオンがかかった15レースがあった。
今回は、懐かしいル・マン式スタートの2レースを見ていただいた。
この年のル・マンの優勝車は、右上写真のワークス・フェラーリ275Pで、
3299cc・12気筒エンジン(275馬力)をミッドに搭載したものであった。
ちなみに、このクルマを操ったJ.ギシュ/N.バッカレラ組は、
走行距離4895.310kmを平均195.638km/hのスピードで走り抜いている。
フェラーリは、1960年の250テスタロッサの勝利以来5連勝(翌65年も250LMで勝利)、
通算7回のル・マン勝利の栄誉を担っている。


 
1964 Nurburgring1000km Start. photo:shell



「今月の表紙写真」としてトップページに掲載してきました「Monthly Gallery」は、
カバーページをリニューアルしたため、同ページに掲載できなくなりました(固定化
したため)。このぺージを気に入ってくださっている人も、けっこうおられた(Eメール
でお便りいただいた)ので、形は変わりますが、今しばらく続けることにしました。
ご愛顧いただければ幸いです。テーマは特に決めていませんが、出来るだけ見た
ことがないようなものを心掛けていきたいと思っています。  2001.11.22記

2001/11 November
1964 Formula 1 Machine
 
 Cooper Climax            BRM

photo:the MOTOR/England

F1シーズン/1964年
ドライバーズ選手権では、グラハム・ヒルのBRM、ジム・クラークのロータス、
ジョン・サーティーズのフェラーリが三つ巴の戦いを繰り広げ、
最終戦/メキシコ・グランプリの最終ラップで2位に滑り込んだサーティーズが
1点差でこれを決めた。
コンストラクターズ部門もフェラーリのものとなっている。
この年は、わが日本のホンダがニュルブルクリングでF1デビューしている記念の年でもある。
典型的な”葉巻型”マシンの上記2枚の写真で、
サスペンション(コイルスプリング+ダンパー・ユニット)の
違い(アウトボードとインボード)に注目戴きたい。


1964 World Champion
John Surtees/Ferrari158

photo:shell


12月のギャラリーは、1964年のパート2をお贈りする予定。


Monthly Gallery
(Coverphotos)

今月の表紙写真/解説

2001年10月掲載

トヨタのプロタイプ・スポーツカー「TS010」/1991
(Toyota 「TS010」/1991)

    

1992年シーズンをにらんで開発された、チーム・トヨタのプロトタイプ・スポーツカーがこの「TS010」。
1999年のル・マン24時間レースで2位となった「TS020」は、広い意味でこの流れを汲む。「TS0
10」は、1991年のSWC(スポーツカー世界選手権)最終戦/AUTOPOLIS(10月27日)に初めて
その姿を現したもので、プジョー905と共に、野性味溢れるマシンであった。エントリー・フォームは、ト
ヨタ・チーム・トムス(TTT)で、車両開発にはトニー・サウスゲートも参加している。空力面に大きな特徴
を見せる「TS010」は、いみじくもプジョー905(下記参照)と、類似点をかいま見ることができる。それ
は、いわば「F1」マシンのシャシーに徹底的に追及された空力ボディを載せた感じのプロトタイプ・スポ
ーツカーに仕上がっているからだ。プレス・レリーズによると、シャシーは、カーボン・モノコックで。ボディ
寸法は、全高1030x全長4800(各mm)。車両重量750kg。トランスミッションは、トヨタ製6速。サス
ペンションは前後ダブルウィシュボーン。ブレーキは14インチ・モノブロック・キャリパー(カーボン製ディ
スク&パッド)。パワーユットは、トヨタRV10型の3500cc・V10(各気筒5バルブ)、最高出力600馬
力以上。エンジン単体重量140kg以下。デビュー戦は6位(G.リース/A.ウオーレス)であった。
   photo:M.Arakawa



2001年9月掲載



無敵のプロトタイプ・スポーツカー/ポルシェ956
(Rothmans Porsche956/1983 Le Man’s 24hrs Race)

 

1982年WEC(世界耐久選手権)チャンピオンカー。ワークス・ポルシェは、翌1983年のル・マン24時間
レースに、さらにレベルアップした「956」を出場させた。956は、ポルシェのレーシングカーでは初のモノコ
ック・フレーム構造を採用、これに水平対向6気筒2649cc・DOHC、1気筒当たり4バルブ/KKK製ツイン
・ターボ・エンジンを搭載している。出力は600〜630馬力(圧縮比7.0,ブースト圧1.3)を発生し、軽量
フレームと相まって、ル・マンの直線で最高速370km/hをマークしている。83年シーズンは、ポルシェは
実に1〜8位を独占した。写真はいずれもワークス・ポルシェ956(ロスマンズ・ポルシェ)。同車は、同年の
「WEC JAPAN」にも出場している。
1号車:ジャッキー・イクス(ベルギー)/ヨッヘン・マス(西ドイツ)組、2
号車:デレック・ベル(イギリス)/シュテファン・ベロフ(西ドイツ)組。
写真:1983年[WEC JAPAN」公式プログラム
 *2002-5/6 エンジン部写真削除



2001年8月掲載

日本車初、悲願の優勝! 1991年ル・マン24時間耐久レース
(1991 Le Man’s 24hrs Race Winning Machine/mazda787B)

 

メルセデスC11、プジョー905、ポルシェ962Cなどの強豪を相手に、日本のマツダ・チームはロータリ
ー・4ローター・エンジンの「787B」で堂々の戦いを挑み、そしてみごと勝利した。苛酷さで知られるル・
マンの長い歴史の中で、日本車が初めて勝った記念すべき出来事であった。1991年6月23日午後4
時、、24時間を362周(1周13.600km、平均205.333km/h)走り切り、トップでチェッカード・フラ
ッグをかいくぐったのである。55号車(写真右)の優勝ドライバーは、フォルカー・バイドラー(ドイツ)、ジョ
ニー・ハーバート(イギリス)、ベルトラン・ガショー(フランス)組。チームの総帥はジャッキー・イクスであっ
た。
  photo:mazda



2001年7月掲載

懐かしの高性能「V12」エンジン/1992
(Dear High Power 「V12」Engine)

  

  
 
 2001年現在、F1エンジンは、ご存じのとおりV10が主流である。が、私などは、「V型12気筒」が奏
 でる高周波ノートがたまらなく好きだ。V10よりたった2気筒多いだけなのだが、レーシング・エンジンそ
 のものが違ったものに感じるから不思議である。3次曲線のエキゾースト・マニホールド・デザインも素敵
 だ。というわけで、今月は1992年当時のV12・F1エンジンを集めてみた。パワーユニットは左上:フ
 ェラーリ(65度5バルブ/気筒あたり)、ホンダRA122E(60度4バルブ)、左下:ヤマハOX99(70度5
 バルブ),ランボルギーニ3512(80度4バルブ)。
   
photo:GRAN PREMIO TIO PEPE DE ESPANA/プログラム1992より 左端:フェラーリの走りは
    「パイオニア」の広告から



2001年6月掲載

プジョー905
(Peugeot 905)
  

 新レギュレーションで行なわれた1991年SWCシリーズ。その開幕戦(4月/鈴鹿サーキット)に快勝
 したプジョー・チームの野心作が、この「905」だった。大胆なシルエットは、当時大変な話題を呼んだ。
 また、シングルシーター並みのコクピット、フォーミュラカーにカウルを被した感じのシャシー+ボディ・デ
 ザインは、その後のスポーツ/プロトタイプカー・デザインに大きな影響を与えた。パワーユニットは自然
 吸気の3499cc・80度V10。変速機は6速。ホイールベース2800,全長4800x全幅1760x全高1
 080各mm。重量750kg。当時のプジョー・チームの監督は、現フェラーリ・チーム監督のジャン・トッド
 氏である。写真左、右/最終戦オートポリス、写真中/第1戦・鈴鹿サーキット
       photo:Peugeot Talbot Sport&M.Arakawa



  

2001年5月掲載

ザウバー メルセデス・ベンツC291
(Sauber Mercedesaenz C291)

 1991年、モーター・レーシングの”巨象”メルセデス・ベンツが、満を持してSWC(Sportscar WorldBR> Championship)に登場させたのが、この「C291」。シャシーのベースはザウバーだが、銀色に彩られ
 た精悍なボデイ・デザインとフロントに付けられた誇り高い”スリーポインテッド・スター”とも相まって、まさ
 に「シルバー・アロー」そのものであった。ミッドに搭載されたパワーユニットは、それまでのターボ・エンジ
 ンから一変、自然吸気方式の3500cc・120度12気筒エンジンへと変えられている。クランク軸の関係
 からチームでは、水平対向ではなく「120度V型12気筒」という表現を使っていた。C291は、ミハエル・
 シューマッハ/カール・ベンドリンガー組が最終戦/オートポリスで優勝している。
  photo:Mercedes-Benz Motorsport



2001年4月掲載

 

トヨタ・ターボチャージド7
Toyota turbocharged 7)

 日本グランプリ・レース(CAN−AMシリーズも視野に)に必勝を期して製作されたトヨタのグループ7マシン。
 V8・4986ccエンジンにツインターボを装着、800ps/8000rpm、74kgm/7600rpmの高性能を誇った。
 だが、その日本グランプリ(1970年)は中止となり、”デモラン”のみで表舞台から去っている。
  トヨタ鞍ケ池記念館で1982年に撮影。
  photo:K.Shirai


2001年3月掲載

 

マクラーレンMP4/5B ホンダV10
(McLaren MP4/5 HondaV12)


 アイルトン・セナに2度めのワールド・チャンピオンをもたらした栄光のマシン「マクラーレンMP4/5B ホンダV10」。
 セナは、このマシンに乗り6勝を挙げ、自らを祝うと共に、マクラーレン/ホンダに3年連続コンストラクターズ・チャン
 ピオンの栄誉をプレゼントした。ホンダは、翌1991年新型V型12気筒エンジンをグランプリに投入、タイプ「MP4/6」
 に搭載して快進撃、セナに3度めの王座を提供した。
 1991年1月 東京レーシングカー・ショーで撮影。
 photo:K.Shirai



2001年2月掲載

 

1991年「F1日本グランプリ」 チーム・フェラーリ/ピットビュー
(Team Ferrari Pitview)

 いわゆるグランプリ・サーカスをするF1チームは、どのチームもピット、パドックはもちろん、トランスポーター
 に至るまで部品・工具類の整理には神経を配っている。したがって、使い勝手(整備)がいい配置にパーツ類
 は置かれていることになる。特にフェラーリのピットの整然さには定評があり、私なども1977年の・1日本グ
 ランプリ」(富士スピードウエイ)時には、チーム・ロータスのそれと共に、その清潔かつ奇麗さに声を挙げたく
 らいのものだった。”跳ね馬”のエンブレムも誇らしげなチーム・フェラーリのピット。
 1991年10月 鈴鹿サーキットで撮影。
 photo:K.Shirai


*事情により、既掲載分の写真の一部割愛いたしました*2002.3.1