Short History
International Division


1936 type 「W125」 
Benz Museum

GRAND PRIX
戦前編



 section1.
クルマによる世界で一番最初のレースは?}

  1878年アメリカ・ウイスコンシン州で、蒸気機関車によるものが世界初のレースといわれているが、諸説紛々あり100%確実ではない。 む しろ10年後の1887年、パリ〜ベルサイユ間で行なわれた走行距離30km強のレースが、世界初という説を採る人のほうが多い。このレース{トライアル?}の優勝者はF.P.アルベール伯爵{ドデオン・ブートン蒸気機関車}で、最高速は60km/hをマークしたともいわれている。
 万人が認める真の意味での初レースは、1895年6月11日〜12日にかけて開催された「パリ〜ボルドー往復レース」{1170km}といえるだろう。フランス人のエミール・ルパソールが1200cc3.5馬力ダイムラー・エンジン搭載のパナール・ルパソールを駆り、48時間48分で走破(平均24km/h)した{もっともルパソールの車は2座席だったため規則で優勝はプジョーに乗るケヒランのものとなっている}。1898年にはルノーも参戦し、パナール、プジョーと三つ巴の戦いを演じている。
 1903年、パリ〜マドリード間レースで死傷事故が起こり中止、以降公道レースは禁止となった。このような経緯を経て1906年第1回グランプリ・レースが開催されている。


1895年パリ〜ボルドール間レース
ダイムラー・ベンツ博物館パブリシティ(写真下も同じ)


 section2.
{第1回グランプリ・レース開催}

 グランプリの名称が使われた世界最初の自動車レースは、1906年6月26日に開催された「(ACF)フランス・グランプリ」であった。ふつか間にわたって770マイル{約1240km}を走破するという、当時としては過酷なもので、出場者は28台であった。
 コースは、ル・マン近郊の公道を閉鎖したもので、1日めのスタートは午前6時。ルノー、フィアット、パナール、メルセデス、、ダラッラなどが1分半の間隔で出走して行った。そして午前11時45分、猛暑のなか、ルノーに乗車したシーズが2位に25分の差をつけゴールした。
 翌日、このシーズを先頭に午前5時45分、前日の生き残りマシン17台が相次いでスタート。荒れに荒れた路面に出走車は悩まされ、シーズもスプリング折損のトラブルに見舞われながらも走り切り、12時15分、栄光のチェッカードフラッグを受けた。シーズ/ルノーの平均速度は62.97マイル(101.34km/h)というハイスピードであった。
 2位はナザロ/フィアット、3位はクレマン/クレマン/パヤールで、完走11台はすべてガソリン車である。ちなみに優勝したルノーのエンジンは、直列4気筒で12.8リッター、最高出力100馬力のものが積まれていた。パナールのエンジン排気量は、なんと18.25リッターというすごさである。
この当時の車両規定は、重量1トンと定められていただけだったので、したがってパワーのあるエンジンを搭載することが、いわば勝利の秘訣でもあった。翌年のグランプリ優勝車はナッツアーロ、以降メルセデス、プジョーとつづいた。

 section3.

{第1次世界大戦をはさんで}

1914年、レギュレーションが大きく変わった。排気量は最大4500cc、
車両重量は1100kgとなった。代表的なマシン、メルセデスのエンジンは
4気筒・16バルブのシングルOHCで最高出力115ps/2800rpm。このワークス・メルセデスは圧倒的な強さで、同年フランス・グランプリ(7月4日)の1〜3位を独占している。そして、この1ヶ月後の8月3日、第1次世界大戦が勃発した。
1918年に大戦は終結し、3年後の1921年にグランプリは再開された。優勝したのはジミー・マーフィで、マシンはアメリカ製のデューゼンバーグであった。このときのレギュレーションは3000ccで車両重量は800kg。また1906年の第1回グランプリ以来、開催地はフランスのみであったが、1921年にはイタリアが、2年後の1923年にはスペインが、1925年=ベルギー、1926年=イギリス、ドイツ、1929年=モナコなどでも行なわれるようになった。
1926年には、規定排気量は1.5リッターとなり、スーパーチャージャー(過給器)装備車も出現している。この頃のマシンは、それまでのフィアット、プジョーに替わって、アルファロメオ、ブガッティ、サンビームなどが顔を出している。


1914年グランプリ。
ベンツが1〜3位独占。


section4.
{マンモス・マシンの激突 その1.}
 タイトルに「マンモス・マシンの激突」と記した。マンモスとは、メルセデス・ベンツとアウトウニオンを指す。1930年代にこのドイツの両雄は、軍事色濃い時代のグランプリ界に,戦慄感を覚えさせるほどの戦いを繰り広げ、やがて世界は、あのおぞましい第2次世界大戦へと突入していくことになるのである。
その、火種はナチス党の総裁、アドルフ・ヒットラーが作った。
 ヒットラーは、ナショナリズムの規範をイタリアのムッソリーニ政策に見い出した。アルファロメオがグランプリに勝利を納め、イタリアの工業力を世界に鼓舞したことに習ったのだ。ヒットラーは、ドイツの工業力を誇示する手段として、アウトバーンの普及と国民車構想を打ち上げ、いっぽうで「グランプリに著しく貢献したメーカーに50万マルクを提供する」としたのである。これに名乗りを挙げたのが両者だったのである。
 この後、話はドイツのベンツとアウトウニオンが中心となる。そこで、1930年の代表的マシンの性能をふたつ紹介しておこう。まずフランスのブガッティB51のエンジンは、直列8気筒DOHC機構の2270cc、スーパーチャージャー付加で160ps/5500rpmの出力を持っていた。いっぽう、イタリアのアルファロメオP3は、やはり8気筒DOHCで排気量2905cc。過給器装備で265ps/5400rpmの出力。P3の最高速は235km/hといわれている。
 1934年のグランプリ出場車規定は、ドライバー、ガソリン、水、タイヤを除いた重量(いわゆる乾燥重量)が最低750kg、ボディ幅850mm以上というものであった。実は、排気量の制限がなかったのである。ということは、どんなスーパーなエンジンでも載せられたのである。
 この条件にピッタリはまったメーカーがベンツとアウトウニオンであった。両メーカーとも航空機技術をふんだんにグランプリ・マシンに注入することが出来、そして1932,33年の両年に活躍したアルファロメオ、ブガッティ、マセラーティなどを、やがて駆逐していくことになる。
ベンツが繰り出したマシンは、ハンス・ニーベル博士とマックス・ワグナーの手になる[タイプW25]。
 フロントシップながらも、フレームは縦置きの2本のチューブラーで構成され、これにアルミの軽量ボディを載せている。パワーユニットは、直列8気筒3360ccのDOHC。各気筒4バルブ計32バルブ方式。スーパーチャージャーを装備し、出力は354ps/5800rpmをひねり出す。
いっぽうのアウトウニオンは、フレームはベンツと基本的に同じながらも、パワーユニットをミッドにマウントする。
 心臓部はV型16気筒の4300cc、やはりDOHC機構で295ps/5500rpmを発生させている。このマシンはポルシェ博士の影響を大きく受けており、「P.ヴァーゲン」と呼ばれた。

「W25」 1935年


section5.
{マンモス・マシンの激突 その2.}
1934年にデビューした両者だったが、しかし結果は、2チーム合わせての優勝が4グランプリしかなかった
 翌1935年のW25の排気量は3900ccにスケールアップ、430ps/5800rpmに。アウトウニオンも4950ccの排気量から、375ps/4700ccに性能を大幅に上げてきた。出力に優るベンツ・チームが、実に6グランプリを制し、残る1グランプリをアルファロメオが拾ったに過ぎなかった。ドライバーはベンツがルドルフ・カラチオラ、アルファロメオがタッツイオ・ヌボラーリである。
 ベンツとアウトウニオンの、マシン開発にかける情熱はすさまじく、出力はベンツが494ps/5800rpm(4740cc)、アウトウニオンが520ps/5000rpm(6010cc)というエスカレートぶりであった。1936年はベルント・ローゼマイヤーがアウトウニオンで5勝、カラチオラがベンツで2勝という結果であった。
 開発の度にエスカレートする排気量と出力アップに、主催者はようやく歯止めをかけようと、1937年からは「排気量を3000ccにする」と発表したが、各チーム共間に合わず、この年は750kg規定のまま行なわれた。
 けっきょく5勝を挙げたベンツのマシンは、名マシンの筆頭に位置する「タイプW125」で、そのスペックは9メインベアリング採用の直列8気筒5660ccエンジンを、ニッケルクローム・モリブデン鋼のフレームに搭載、出力は646ps/5800rpm(後期型)を発生させている。サスペンションは、前ダブルウイッシュボーン、コイルスプリング、後ドデオンアクスルを用いている。このマンモス・マシン、いや恐るべき「W125」を開発したのはルドルフ・ウーレンハウトで、彼は設計者であると共にテストでもステアリングを握り、最高速はなんと380km/h(実際は330km/h?)をマークしたといわれている。日本でいえば昭和12年のことである。
 1938年、レギュレーションは3リッター(過給器なし4.5リッター)となり、ベンツはW154をグランプリ戦線に投入した。W125よりホイールベースを若干短く(2730mm)したもので、フレームは基本的に同じ。パワーユニットは、新設計の60度V型12気筒DOHC・2960cc(ボア61mmxストローク70mm)に2個のスーパーチャージャーを装備していた。このパワーユニットは、車体を低くするため左に傾けて搭載され、プロペラシャフトはシート横を通された(W154/M154)。出力は、ブースト圧27ポンドで468ps/7800rpmを発生、最高速は315km/hであった。
W154は、グランプリ10レース中6レースに勝利を納め、これをドライブしたカラチオラは3度めのチャンピオンとなっている。
 これを見たイタリア勢は、これでは勝てないと、地元トリポリ・グランプリ(1939年5月7日)のレギュレーションを1.5リッターに変更(開催8ヶ月前)した。が、急造マシンW165(ホイールベース2450mm、90度V8・1.5リッター、スーパーチャージャー付き)に乗ったヘルマン・ランクとカラチオラに1〜2位を取られ、イタリアをはじめとして他チームは、ベンツ・チームになすべき手がなかったのである。
1934年から1939年までの6年間に、ベンツが優勝した回数は32回、アウトウニオンが22回、そしてアルファロメオが8回であった。
このトリポリ・グランプリから3ヶ月後の1939年9月1日、第2次世界大戦が起こり、世相は長い暗い時代に突入していったのである。


 type 「W25」 
Benz Museum

グランプリ/戦前編・了



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