photo essay

「忘れ得ぬ一枚の写真」




1.
1973年9月16日
アルビ/風戸裕選手


フランスは、パリを飛行機で南下すること約1時間。
超音速機コンコルドの製造・組立を行なっていた、トゥルース地方の飛行場に降りる。
そこからレンタカーでこれまた約1時間くらい(だったと思う)走る。
後期印象派の画家、ロートレックがこよなく愛し、描きつづけた(田園)風景が眼に飛び込んでくる。
道の両側にはプラタナスの木が生い茂っており、その終点まで走る。
そこがアルビ(albi)という、小さな静かな町であった。
1973年9月16日、ヨーロッパF2選手権第9戦「第31回アルビ・グランプリ」に、当時、若手ナンバー1の風戸裕選手が出場したのである。
白地に赤のジャパン・カラーに彩られたマシンは、GRD273/シュニッツァーBMW。
しかし、このレースには、もう一人の日本人選手も出場していた。
濃いグリーンのマーチ732/BMWを駆った黒澤元治選手である。
さらに、F2選手権レースだけにロニー・ピーターソン、ジャン・ピエール・ベルトワーズ、アンリ・ペスカロロ、ヨッヘン・マスなど、そうそうたるメンバーも顔を揃えた。
結果は、善戦むなしく2台ともリタイアとなった(優勝はビットリオ・ブランビラ/マーチ732BMW)。
が、ふたりの動向は、当時関係者の注目の的であり、その後の日本人選手の海外挑戦に大きな影響を与えたのも、これまた事実であった。
写真は、マシン調整中の風戸選手のガレージ風景で、彼は練習中はハートBDGエンジンもトライしていた。。
私にとって、忘れ得ぬ一枚の写真である。



2.
1968年早春
怪物ローラ、日本上陸

決戦!の様相を呈していた1968年日本グランプリは、5月3日の決勝の日を迎えるまで、日に日に熱さを増していた。
そんなある日、われわれは”怪物”ローラが日本に上陸するとの情報をつかみ、某港湾に飛んだ。
海上から陸揚げの瞬間を捉えたかったからだ。
梱包が解かれたその一瞬、私はなんとも言えぬ驚きと興奮を覚えた。
真っ赤に彩られた(真紅の)、エリック・ブロードレーがデザインした、あのローラT70MK3が、まさに手の届く位置で実見できたからである。
パワーユニットはシボレーV8が搭載されていたが、本番までには何種類かが換装された。
そして決戦の日、この怪物マシンは、スタート鋭く飛び出していったのだが........
私にとって、忘れ得ぬもう一枚の写真である。



3.
1972年6月
「ヒューッ」という音の思い出



1972年6月のある日。それは、とてつもなく暑い日だった。
カナダはモスポート・パーク(モントリオール)の、パドックの片隅に置かれていた1台のマシン。
それは今はないCANーAMシリーズに、ポルシェ・ワークスが必勝を期して送り込んだ”怪物”「Porsche917/10」であった。
早朝から、とにかく暑く、バカ売れのスイカを我々ふたりもほおばり、猛暑に対していた。
すでに、最強の常勝マシン「McLarenM8F/Chevrolet V8」の取材は終えていた。
オレンジ色のM8Fは、想像以上に小さかった。が、落ち着いており、屈強そのものだった。
L&Mカラー(タバコ会社)に彩られた917/10の周りに、人が集まり始めた。
いつのまにか、ポルシェ・ワークスのスタッフも、マシンの側に立っていた。
M8Fよりは図体がでかく見えた。
秘密兵器のパワーソース部は、なかなか見られない(見せない!)。
が、わずかな時ではあったが、われわれは垣間見た。
フラット12エンジンに、2基のターボブロアを装備したミッドシップ部はバカでかく見えた。圧力調整バルブがやたら目立った。
そして4.5リッター(あるいは5リッター)・推定850〜950馬力(翌年にはなんと1100馬力)の怪物マシンが決勝レースを走った。そしてまた驚いた。
アメリカン・シボレーV8は、もちろん、はらわたに染み込むような低音なのだが、チューニングされパワーが上がっているため、これまた想像以上に高周波が出ている。
ところが、マーク・ダナヒューが乗った917/10は、ターボのブースト圧を相当上げているらしく、「ヒューッ」という音で、直線をブッ飛んでいくのだ。
この音、感覚には、ある記憶があった。
かつて、トヨタ・ターボ・チャージド7のプロジェクトの後、トヨタ・ワークスが「マーク2」で再度ターボをトライしたことがあった。
実戦で、このターボ・チャージド・マーク2が、「ヒューッ」という音(音もなくと言ったほうが正しいかもしれない)と共に、直線でポルシェ・カレラ6をぶち抜いて行ったのを思い出したのだ。
それは、強烈というよりも、むしろ不気味な感覚であった。
この72年初戦は、917/10は2位で終わった。だが、やがて5.4リッターのブロックも使われ、しだいにライバルもいなくなり、CANーAMシリーズは消えていった。
ビッグ・マシン競争時代の、強烈な印象のひと駒。


Porsche917/10 Turbo Charged Flat12 Engine
photo:Porsche Museum



4.
1965年5月
ジム・クラーク、インディも制覇



この写真は、1966年10月8〜9日、富士スピードウエイで行なわれた「インディアナポリス・インターナショナル・チャンピオン・レース」の公式プログラムに掲載されたものである。
つまり、前年のインディ500マイルにジム・クラークが出場したときのもので、おそらく同コース(インディアナポリス・モータースピードウエイ)を試走した時のものではないかと思われる。
”天駆けるスコットランド人”(the Flying Scot)の異名を取ったジム・クラークは、1965年F1ドライバーズ・チャンピオンであると同時に、1965年のインディ500にも、みごとウイナーとなっているのだ。
数ある、彼の写真の中でも、私はこの写真が大変好きだ。
白黒ながら、アングルもいい。打ち合わせをするジム・クラークの表情もいい。インディ用ロータスV8マシンの姿もいい。
というわけで、わたしのお気に入りの1枚なのである。
近々、拙稿「連載・伝説の名ドライバー列伝」にご登場願う予定で、優勝したインディ500レースや「インディ・イン・ジャパン」の模様なども、記述するつもりでいる。
もう少しお待ちいただきたい。
今まで以上の力作にするつもりでいるし、思い入れもかなりのもの、と自負もしている。
言うまでもないが、彼の伝説の中心はF1レースを中心としたものであり、絶対行数からいったらインディ関連は少ないと思う。
という訳で、ジム・クラーク、インディ・レース出場の一齣を、「予告編」としてでも見ていただければ、ファンの一人としてもうれしく思う次第です。



5.
1991年1月12〜15の間
ゲルハルト・ベルガー、幕張メッセに現れる
 

    

現在はBMWウイリアムズF1チームで、(BMW)エンジン部門のディレクターの要職にあるゲルハルト・ベルガー(Gerhard Berger/オーストリア)氏。
氏の若き日の、ある日の写真を手持ちの資料から見つけたので掲載することにした。
 フェラーリ・ワークスのドライバ-で、その後アイルトン・セナとマクラーレン・ホンダでコンビを組み、日本のファンを魅了し続けたベルガー氏の一挙一動をお覚えの方も多かろうと思う.
写真は、その氏が1991年初冬、千葉県幕張メッセで開催されたレーシングカーショーに、スペシャル・ゲストとして招かれ、(別館何階でだったか忘れたが)記者の質問に答えていた時に私が撮ったスナップショット。
真中のサインは、会見も終わり、鈴鹿のテストに駆けつける時の、エレベーターを待つ氏に、取材用ノートに無理強いして書き込んでもらったもの。
日の目を見ることもない種類のものだが、あえて.....。