【short story/Drivers Profile】




第3回

ニキ・ラウダ
Niki Lauda


photo:
 F1 Japan Grand Prix 1977.
Official Program Cover



 ”火焔地獄”から生還した男....。
ニキ・ラウダもそのひとりである。
1976年8月1日、ドイツ・グランプリ決勝レース・2周めの、あの事故は、
F1ファンなら、なにかでおそらく知っているに違いない。
ニュルブルグリンクを紅蓮の炎で覆った恐ろしいアクシデントであった。
しかも生死をさまようほどの火傷を負った男が、
1ヶ月後のイタリア・グランプリを走り、
完走し、しかも4位に入賞したのである。
たとえ、それが恐怖心を払拭するためで、チャンピオン争いがかかっていたとしても、
事故の度合いからいって信じられない出走であった。
だが、その不屈の精神力は、当時驚きと共に感動を伴って
世界中のスポーツ・ファンの魂を揺さぶったものである。
その彼は、8年後、3度めの世界チャンピオンに返り咲いたのだから、
まさにF1に対する”執念”を感じさせずにはいられなかった。
1970年から80年前半にかけて、ニキ・ラウダは最も勇敢で、
しかもクレバーなドライバーだったことだけは間違いない。

のニキ・ラウダ(Niki Lauda)は1949年2月22日、オーストリアのウイーンに生まれた。
17歳の時、西ドイツ・グランプリで地元の英雄、ヨッヘン・リントの走りを見て
自分の道を決定したのだという。
1968年、ミニ・クーパーでレースに初出場。そしてフォーミュラV、スーパーVのレースにも出場した。
1970年にF3、翌71年にはマーチでF2(ルーアンで3位のみ)にステップアップした。
裕福な家に生まれながら(製紙工場経営)、レース出場への親の猛反対にあい、
これらのレース出場は、自分で資金調達したという。
マーチF2にしても、その後のマーチF1にしても始めの頃は、マーチ社から借り出したものである。
(オーストリアの銀行からの融資出場、途中からチーム入り)
言い忘れたが、ラウダは、15歳の頃から家業のトラックやフォークリフトを運転し、
機械やクルマに対する、いわゆるメカにも人一倍興味持ったようである。
そして、このことが、テスト・ドライブを含むマシン・セッティング等にも
大きな意味を持ったことは、想像に難くない。
F1デビューは1971年。
地元オステルライヒリンクで行なわれたオーストリア・グランプリであった。
が、翌72年シーズンも含め、マーチF1に乗ったラウダの成果はなかった。
ニキ・ラウダの名前がF1関係者の口から発せられるようになったのは1973年からである。
マルボロBRMチームと契約しての出場だった。
仲間にはクレイ・レガゾーニ(スイス)、ジャン・ピエール・ベルトワーズ(フランス)がいた。
ラウダは、焦らなかった。
マシンを知り、マシンに慣れることから始まった。
そして第5戦ベルギー・グランプリ(5月20日)で5位に初入賞したのである。
だが、この年の成績はこれで終わった。
1974年、見る人は見ていたとでも言うのだろうか。
フェラーリのボス、エンツォに声をかけられ、
ニキ・ラウダは、クレイ・レガゾーニと共にチーム・フェラーリ入りし、
輝かしい戦果を挙げていくことになる。


photo:
F1 Japan Grand Prix 1977.
Press Material


ェラーリ312Bと共に発進した1974年シーズン、
ニキ・ラウダは、第1戦のアルゼンチン(ブェノスアイレス)にいきなり2位にはいる健闘を見せ、周囲を驚かせた。
第3戦/南アフリカ・グランプリ(キャラミ)ではファステストラップを叩き出し、
第4戦のスペイン(ハラマ)ではポールポジションを取った勢いのまま、優勝してしまったのである。
しかも
ファステストラップまで奪う完璧な勝利であった。
つづく第5戦/ベルギー(ニーベル)は2位、第8戦/オランダ(ザンドボールト)は2回めの優勝....。
けっきょく、ニキ・ラウダはこの年、2回の優勝を含め総得点38点を獲得、
ランキング4位となったのだ。
ポールポジション9回を決めたラウダの走りは、
F1・3年めのドライバーとは、とても思えないものであった。
F3,F2でのマシン・セッティングの経験がF1でも大きくものをいい、
彼はフェラーリのエンジニアとも熱心に意見を交換、
マシンを仕上げていったのである。
翌1975年、ラウダとクルーはギヤボックスを横置きにし、
後部のオーバーハングを縮めた(ノーズがさらに低くなり、この結果ウイングの効果がアップ)「312T」で
シーズンに臨んだ。
ラウダは500馬力近くまで上がった水平対向12気筒エンジンを巧みにドライブ、
前年同様9回のポールポジションを獲得し、シーズンを突っ走った。
結果、5回の優勝で総得点64.5点を得、晴れてワールド・チャンピオンとなったのだ。
(5勝:モナコ、ベルギー、スウェーデン、フランス、アメリカ)
1976年のシーズンは、ニキ・ラウダにとって文字どおり”魔の年”となってしまった。
マクラーレンのジェームス・ハントと熾烈なチャンピオン争いを繰り広げ、
冒頭の火焔地獄に遭遇し、最終的に1ポイント差で、その座を逃したのだ(ハントが王者)。
(関連記事:マクラーレンの華麗なるグランプリ・ロードドライバー・プロフィール/ジェームス・ハント
モータースポーツ題材の映画紹介/Pole Position

1977年、ニキ・ラウダは2度めのワールド・チャンピオンとなる。
312Tのサスペンションを改良、500馬力以上の出力となった「312T2」を駆って、
優勝こそ3回(南アフリカ、ドイツ、オランダ)と前回より少なかったが、
満遍なく得点を重ね(2位・5回、3位・1回、4位・2回、5位・1回)、
総得点72点を挙げたのである。
ウルフのジョディ・シェクター(2位)に17点差をつけての文句ない勝利であった。
が、ニキ・ラウダは翌1978年、
(フェラーリ・チームを離れ)ブラバム・アルファロメオ・チーム(Brabham Parmalat)からグランプリに出場した。
77年シーズン、カルロス・ロイテマン(アルゼンチン)とジョイント・ナンバー1となった
(エンツォ・フェラーリが決めた!?)ことを怒ってのことだと言われる。
フェラーリ「T型12」と同じ水平対向12気筒のレイアウトを持つアルファロメオ・エンジンを搭載したブラバムBT46マシンに乗ったラウダは、
しかし翌79年シーズン(BT48)を含め2勝(スウェーデン、イタリア=78年4位、79年14位)しか挙げられなかった。
そのラウダは、1979年第14戦/カナダ・グランプリ(モントリオール)の予選中、突然引退声明し、
オーストリアに帰国してしまったのである。
このことを彼に決意させた理由としては、
ひとつには、ブラバム・マシンの戦闘力のなさ、
そしてもうひとつは、”ラウダ・エア”の事業に専念することにあったようだ。
この引退声明は、決してフロックではなかった。
事実、彼は一時、サーキットにその姿を現さなかったのだから....。


1977 F1 Champion/Niki Lauda Ferarrari312T 
photo:1977 Japan Grand Prix Press Material


1978 Brabham BT48/Alfaromeo Flat12
photo:Nippon F1 Club Racing Season 1978〜79

退したはずのニキ・ラウダがF1の世界に戻ってきたのは1982年シ−ズンのことだ。
前年、マクラーレン・チームの新しい主宰者ロン・デニス(それまではテディ・メイヤー)から復帰を勧められ、
サーキットにドライバーズ・スタイルで現れたのだ。
もちろん正式の手続きを踏んでのことだ。
ニキ・ラウダの復帰に当たって、諸説が紛々とした。
実はラウダは、1980年初めに航空機事業が財政的危機に陥り、
税金問題を抱えるに至っていたのだ。
それも、F1カムバックの理由のひとつであったことは、想像に難くない。
それはともかく、ラウダはF1に復帰した。
マシンは、マクラーレン「MP4」。
詳細は”マクラーレンの華麗なるグランプリ・ロード”を併読頂きたいが、
現在でも息づく、ジョン・バーナード設計による傑作マシンの原型モデルである。

人々の驚きをよそにニキ・ラウダは、
復帰第1戦である82年開幕戦/南アフリカ・グランプリ(キャラミ)で4位に入賞、
第3戦/西アメリカ・グランプリ(ロングビーチ)でマクラーレンMP4B/DFVを優勝に導いたのである。
恐るべきニキ・ラウダのプロフェッショナルぶりであった。
さらに7月のイギリス・グランプリブランズハッチ)にも勝ち、
合計30点を挙げ、ランキング5位にその名を残したのである。

1983年、空力面を向上させたMP4C/DFVで戦ったラウダ/マクラーレン・コンビだったが、
時は既にターボ時代に突入していた。
ラウダは、2位・1回、3位・1回、6位・2回の計12点(ランキング10位)に終わった。
だが、翌1984年はニキ・ラウダにとっては願ってもない年となった。
83年の最終戦に、MP4Cシャシーに積まれた
TAGポルシェV6ターボ・エンジンの真価が発揮されたからである。
「MP4/2」と名付けられたそのマシンは、セッティングのプロとまで呼ばれるようになっていた
ニキ・ラウダと新人アラン・プロストのふたりにより、
全部で11勝を挙げる活躍で、他者をまったく寄せつけない強さを発揮したのである。
ラウダ5勝、プロスト6勝という内訳で、
最終戦(ポルトガル、プロスト1位、ラウダ2位)までポイント争いはもつれたが、
結果、ラウダ72点、プロスト71.5点の0.5点の僅差で
ラウダが3回めのチャンプを決めたのである。

ザンドボールトで行なわれたオランダ・グランプリ(1985年8月25日)で
優勝(MP4/2Bポルシェ・ターボV6、2位プロスト)したのを最後に、
ニキ・ラウダはこの年の終わりに、正式にF1から引退した。
最後の年のラウダの総得点は14点、ランキング10位であった。


1984 McLaren MP4/2 &Niki Lauda
illustration:Marlboro Grand Prix Guide 1950〜89

**
マシン・セッティングにおいては追随を許さぬプロで、
走りはクレバー、そしてなによりも執念とも思えるほどの執着をF1に見せたニキ・ラウダ。
そのニキ・ラウダ氏は、今ジャガー・チームの代表として
F1サーキットに戻ってきたばかりではなく、氏自身がマシンに乗ってテストもするという。
”F1のラウダ”健在である。

(完)



 グランプリ出走回数:171回(1971〜79,1982〜1985)
 優勝回数:25回
 2位:20回、3位:9回
 ポール獲得回数:24回
 ファステストラップ獲得回数:25回
 世界チャンピオン:3回(1975,77,84年)

シリーズ「歴戦の勇士」第1回:ケケ・ロズベルグ
第2回:ジェームス・ハント