名門レーシング・チームの系譜/第2回


Team
 McLAREN
その華麗なるグランプリ・ロード



McLaren M26/DFV

ここ数年、フェラーリと激しいチャンピオン争いを演じているマクラーレン・メルセデス。
が、「West」カラーに彩られたマクラーレン・マシンは、ベンツ色が強く、
往年のF1ファンには、正直いって今ひとつピンとこないのではなかろうか。
真紅のフェラーリ、グリーン/ブラックのロータス、ブルーのティレル等のなかにあって、
やはりマクラーレンは、白と赤に塗り分けられたマルボロ・カラーがよく似合った。
今回の「名門レーシン・チームの系譜」は、そんな時代のチーム・マクラーレンを採りあげた。

Bruce McLaren 
1937.8.30〜1970.6.2

マクラーレン・レーシング・チームは、コンストラクターズ・チャンピオンに過去8回輝いている名門チームである。
しかし、その礎を築いたブルース・マクラーレンは、一度もチャンピオンの座に着くことなく1970年、
テスト中の事故でこの世を去っている。
が、彼は名実共にマクラーレン・チームの生みの親であり、
マシンの開発者であり、偉大なるドライバーであったことは間違いのない事実である。
この系譜は、当然ながら、そのブルースを中心としてまとめたものである。


1990年、F1専門誌に執筆・再録/白井景



”派遣ドライバー選考会”が大きなキッカケ
ブルース・マクラーレン(Bruce McLaren)は、1937年(昭和12年)8月30日、
ニュージーランドはノースアイランドのオークランドで生まれた。
家は整備工場とガソリン・スタンドの経営をしており、
父親のレスリーは、モーターサイクルのライダーでもあった。
というわけで、ブルースも早くからモータースポーツに目覚める環境下にあったのである。
彼が15歳の時には、中古のオースチン・セブンが買い与えられ、これを自身で整備し、ヒルクライムに挑戦している。
翌年には、ジムカーナやビーチサイド・レースにも出場し、
工業専門学校在学中にはステップアップしたクルマ(オースチン・ヒーレー100)で本格的なレースに戦いを挑んでいる。
1958年、ブルースが21歳の時、ニュージーランド・インターナショナル・グランプリ協会(NZ・GP)主催の
”ヨーロッパ派遣ドライバー選考会”に出場し、みごと初の留学生となった。
この年の3月、晴れてイギリスに渡り、クーパーF2マシンでエイントリー200マイルに
フォーミュラ・レースのデビューを果たし、つづくシルバーストーンのレースで3位に入賞した。
ブランズハッチのレースでは、ティレル・レーシングの主宰者ケン・ティレルを打ち負かし、
ニュルブルクリンクで行なわれたドイツ・グランプリではF2クラスの優勝を果たしたのである。
この時は、F1の優勝者(トニー・ブルックス/バンウオール)と共に表彰台に登ったのだ。
けっきょく同年のF2チャンピオンシップでは、5位にランクされる快挙を遂げている。
翌59年にはブルースは、クーパーのワークス・チームの一員となり、F1のステアリングを握ることになった。
同僚には、ブラバム・チームの基礎を築いた名手ジャック・ブラバム、マスティン・グレゴリーなどがいた。
なかでもジャック・ブラバム(Jack Brabham、オーストラリア)は、早くからブルースの才能を見い出し、
あらゆる意味で援助を惜しまなかった人物である。
ブルースの天才型ドライビングの真価が発揮されたのは、この年の12月、セブリングでだった。
なんとアメリカ・グランプリで優勝してしまったのである。
恐るべきステアリング・ワークでクーパー/コベントリー・クライマックス1.5リッターをドライブ、
最終ラップでガス欠に陥った同僚ジャック・ブラバムを抜いての大金星であり、
F1史上最年少(22歳)の優勝の記録さえ打ち立ててしまったのである。
同年のチャンピオンシップ・ランキングは、なんと4位であった。
1960年、ブルース・マクラーレンはクーパー・チームのナンバー2となり、
チャンピオンシップ・シリーズを飛ばしに飛ばした。
その結果、アルゼンチン・グランプリに優勝を果たし、モナコ、ベルギーに2位、フランス、アメリカで3位に入賞した。
トータル・ポイント34を挙げ、ジャック・ブラバムに次いで2位となったのだ。


1966年フランス・グランプリでのブルースと
マクラーレンM2B/セレニシマ。

photo:CBS・ソニー出版
「チーム・マクラーレンの全て」より。下も同じ。


自らのチームを結成
こうしてクーパー・チームは1959年と60年の両年、
ドライバーズとコンストラクターズのダブル・チャンピオンになる活躍を見せたが、
1961年にはブラバムは、自らのチームを作るべく同チームを離れ、エース・ドライバーはブルースとなった。
が、いかんせんパワーユニットのクライマックス・エンジンが、他チームのそれと比較して劣勢で、
けっきょく61年はチャンピオンシップ6位に終わっている。
そしてクーパー・チームは、この後1966年の3リッター規定まで優勝はお預けの形となるのである。
ブルース自身も1962年・13位、63年・16位、64年・17位、65年・18位と低迷を続けた。
話は前後するが、彼は1963年に仲間と”ブルース・マクラーレン・モーターレーシング・チーム”を結成、
のちに同チームを背負って立つことになる人物、テディ・メイヤーもこの年に同チームに加入している。
1965年暮れ、ブルースは66年から自チームからマクラーレンの名を冠したマシンで、
F1に出場することを決意、併せて同郷のニュージーランド若手ドライバー、
クリス・エモン(Chris Amon=エーモンあるいはアモンという人もいる)が新チームに加わっている。
1966年に出場したマシンは「M2B」で、シャシーはハニカムボード(蜂の巣状)によるアルミモノコック。
パワーユニットはセレニシマまたはインディ用フォードV8のスケールダウン版が用いられた。
しかし結果はベルギーで6位、アメリカでは5位に留まっている。
ブルース・マクラーレンは、F1に出場するかたわらスポーツカー・レース、CAN−AM
(カナディアンーアメリカン・チャレンジカップ)シリーズにも意欲的に挑戦を続けていた。
そして1966年のル・マン24時間では、アメリカ・フォードが、その威信をかけて開発したマシン、
”フォード・マーク2”(7リッター・V8)にブルースとエモンがコンビを組んで乗り込み、
フェラーリ艦隊を向こうにまわして戦った。
そして全走行距離4843.100kmを平均201.796km/hのスピードで走り切り、
みごと優勝に導いているのである。
また、排気量無制限のオープン2座席マシンで競われるCAN−AMシリーズでは、
1967年と69年は、自チームが開発したシャシー/ボディ”M8B”にシボレーV8エンジンを載せブルース自身が、
68年にはデニス・フルム(Denis Hulme、ニュージーランド=ヒュルムあるいはハルムという人もいる)の手で、
チャンピオンシップをものにしているのだ。


マクラーレンM8A/シボレーV8。
1968年ロサンゼルス・リバーサイド。
ドライバーはD.フルム。


1970年スペイン・グランプリ。
M14Aのステアリングを握るブルース。



M8Dと共にテスト中に死亡
それはさておき、話をF1に戻すと、
1967年は、パワーユニットにBRM(ブリティッシュ・レーシング・モーター)・V8を搭載したM4Bと、
同V12エンジンを換装したM5A型で転戦したが
トータル・ポイントわずか3点(ランキング14位)でシーズンを終えている。
翌68年は、フォードDFVパワーユニットを搭載したM7Aでトータル22点を挙げ5位、
そして69年は、同じパワーユニットでブルースとフルムが善戦、ブルースは26点を挙げ3位に、
いっぽうフルムは20点で6位に着けたのだ。
ところが1970年6月2日12時20分、イギリス・グッドウッドのテストコースで、
ブルース・マクラーレンはCAN−AMマシン”M8D”と共に、
一瞬にしてこの世を去ったのである。33歳であった。
快活でクレバーであったブルースの死は、世界中に驚愕をもって打電された。
そして、文字どおり命を張って開発された”M8D”は、故人の冥福を祈るように、
その後のCAN−AMシリーズで大活躍したのである。
ブルース・マクラーレン・モーターレーシング・チームは、
ディレクターとして加入したテディ・メイヤーを中心として、活動は再開された。
1971年、フォードDFV・V8を搭載したM14AとM19Aにデニス・フルム、ピーター・ゲシン、
ジャッキー・オリバー、マーク・ダナヒューなどが乗り、トータル10点で選手権ランキング6位。
翌72年は、M19Aをフルムとピーター・レブソンがドライブ、47点で3位、
つづく73年も58点で3位にはいったのだ。
迎えて1974年、マクラーレンF1カーは、
タイプも73年から”M23”となっており、熟成されていた。
M23は、コークボトル・タイプの、それまでのM19からウエッジシェイプとなり、
ラジエターは両サイドに移された。
設計はゴードン・コパックが受け持った。
シャシーはツインチューブのモノコックで、サスペンションはユニークなプログレッシブ式となっている。
ホイールベース2565mm、トレッド前1603,後1587mm、重量575kg。
ブレーキはロッキード製ベンチレーテッドで、前アウトボード、後インボード・タイプ。
ホイール前13−17,後16−18インチ。
この年から石油会社のテキサコがメイン・スポンサーとなり、
チーム体制は”テキサコ・マルボロ・マクラーレン・レーシング・チーム”となった。
ドライバーは、デニス・フルムと、
若きエマーソン・フィッティパルディ(Emerson Fittipaldi、ブラジル)が加わった。
さらに化粧品メーカーの”ヤードレー”がバックアップするヤードレーM23には、
元モーターサイクルの王者、マイク・ヘイルウッドが乗ることになった。
この年のグランプリ・サーカスには、文字どおり強敵がクツワを並べた。
マシンではフェラーリ312B3を筆頭にロータス72D、ブラバムBT44、
ティレル007,BRM・P160E、シャドウDN3などが。
そしてドライバーではクレイ・レガッツォーニ、ニキ・ラウダ、カルロス・ロイテマン、
ロニー・ピーターソン、ジョディ・シェクター、カルロス・パーチェ、ジャッキー・イクス、
ジェームス・ハント、パトリック・デパイユなどである。
この結果、フルムがアルゼンチンを、
フィッティパルディがブラジル、ベルギー、カナダの3グランプリを制した。
フィッティパルディがトータル55ポイントを挙げ、ドライバーズ・チャンピオンを手中にし、
マクラーレン・チームも74点で、結成以来10年めにして、
初のコンストラクターズ・チャンピオンの座に着いたのである。


エマーソン・フィッッティパルディ。


1972年につづく2度めのワールド・チャンピオン(1度めはロータス72フォード)に輝いたエマーソン・フィッティパルディは、
ブラジル生まれの史上最年少(25歳)のチャンピオン。
モータースポーツ・ジャーナリストを父に持ち、
実兄ウイルソンと共に早くからモータースポーツの世界にはいった。
本場ヨーロッパでF3を皮切りに、F2で走っていたところを、
ロータスのコーリン・チャップマンにその才能を見出され、ロータスF1チーム入り(1970年)。
そのわずか2年後にワールド・チャンピオンになった逸材である。
そしてさらに2年後には、別チームでまたも世界を制した、
まさに天分に恵まれたドライバーと言えよう。
ちなみに1974年のランキング2位は、フェラ−リ312B3に乗るレガッツォーニであった。
1975年は、またマクラーレンM23とフェラーリ312との対決となった。
マクラーレンはフルムが去って、フィッティパルディと新加入のヨッヘン・マスのふたり。
いっぽうフェラーリは、レガッツオーニとニキ・ラウダ勢。
主にこの両チームが激しいバトルを繰り広げ、
マクラーレンが3勝、フェラーリが6勝を挙げ、
けっきょくニキ・ラウダが64.5ポイントでドライバーズ・チャンピオンに、
フェラーリが同60点でコンストラクターズ・チャンピオンとなった。



上:1976年10月24日、雨の日本グランプリ・スタート(富士スピードウェイ

出走車は水しぶきをあげる。
photo::K.Shirai
下:マクラーレンM23とジェームス・ハント。



決戦”富士スピードウエイ”
1976年のシーズンにはいる前、(エマーソン)フィッティパルディは
ウイルソンと自チームを作る気持ちが強く、マクラーレン・チームを去った。
そこでテディ・メイヤーは、マルボロと相談の上、ヘスケス・チームにいたジェームス・ハントに白羽の矢を立て、
同チームに招く(引き抜く)ことになった。同僚は、前年同様ヨッヘン・マス。
M23はこの頃、ナンバーもタイプ”8”となっていたが、
トランスミッションは5速から6速となり、
リヤサスペンションはパラレルリンク式から、ロワがウイッシュボーンに変更されている。
このシーズンもライバルはフェラーリだ。
そしてティレル・チームは、前代未聞の6輪カーを繰り出していた。
この結果、1976年各グランプリの優勝は下記のようにめくるめく変遷した。
ブラジル:ニキ・ラウダ/フェラーリ
南アフリカ:ラウダ
西アメリカ:クレイ・レガッツオーニ/フェラーリ
スペイン:ジェームス・ハント/マクラーレン
ベルギー:ラウダ
モナコ:ラウダ
スウェーデン:ジョディ・シェクター/ティレル
フランス:ハント
イギリス:ラウダ
西ドイツ:ハント
オーストリア:ジョン・ワトソン/ペンスケ
オランダ:ハント
イタリア:ロニー・ピーターソン/マーチ
カナダ:ハント
アメリカ:ハント
つまりアメリカ・グランプリの終了時点までにニキ・ラウダ(フェラーリ)が優勝5回、
ジェームス・ハント(マクラーレン)が同6回というわけで、
チャンピオン争いはこのふたりにより、
最終戦の日本グランプリ(富士スピードウエイ)にまで持ち込まれたのである。
決戦の10月24日は、前日来の雨でコースの至る所に水たまりが出来ている状態。
スタート時間を遅らせはしたものの、
予選3位のニキ・ラウダ/フェラーリは早々と走るのを止めた。
(厳密には出走後2周で棄権)
例の(ドイツ・グランプリ)火災事故以来(生死をさ迷った事故)、
危険に対してより敏感になっていたからといわれる。
ポール・ポジションは、ロータス78のマリオ・アンドレッティ。
ジェームス・ハントは2位だ。
勝利の女神はアンドレッティに微笑み、ハントは一時5位に落ちながらも懸命の疾走を続け3位に。
そして貴重な得点4ポイントをプラスしてトータル69点、
ラウダに3点の差をつけ逆転、みごとドライバーズ・ワールドチャンピオンとなったのである。
惜しくもコンストラクターズ・チャンピオンはフェラーリとなり、
マクラーレンは2位に終わった。
翌77年も、ハントとマスの態勢でマクラーレン・チームはグランプリ・シーズンに挑んだが、
ハントのイギリス・グランプリ制覇以外は、マクラーレン・チームの勝利はなく、
ロータス78の活躍ばかりがめだったシーズンであった。
マシンはM23と、その改良型M26も出場したがパッとしなかった。
そしてマクラーレンの勝利は、この後1984までない、スランプといっていい状態が続くのである。


ジェームス・ハント

現在のマシンの原点”MP4”誕生
大流行した”グランドエフェクト・マシン”をマクラーレンが採り入れたのは1978年だった。
「タイプM28」がそれである。
やはりゴードン・コパックの設計によるもだが、
センターモノコックの両側にウイングセクションが設けられたものであった。
前後サスペンションも内蔵されるカウルは巨大なもので、
ホイールベースは2870mm、トレッドは1625mmとなってしまった。
結果的にM28は重過ぎ、かつ操縦性にも難があった。
改良型のM29も出来たが、シーズンを通して成績は惨たんたるものだった。
1979年も似たりよったりだった。
そして翌80年には、長年設計を担当していたゴードン・コパックが
不振の責任をとった形でマクラーレンを去った。
{彼はスピリット・チームを創設した}
新しい設計者はジョン・バーナードで、
他資金がはいることにより、会社名も”マクラーレン・インターナショナル”となった。
テディ・メイヤーも管理部門へと、その職務分担も変わった。
(1990年当時の、マルボロ・マクラーレン・ホンダのオーナー}ロン・デニスが、
大きな権限を、この時に持ったのである。
併せて拠点はコーンブルックに移されている。
M29とM30を併用してグランプリに臨んだ同チームだったが、
80年はコンストラクターズ・ポイント11点で7位に留まっている。
1981年は、カーボンファイバーをモノコック・シャシーに採用した
”MP4”(マクラーレン・プロジェクト4,現在のマシンの原点)というマシンが作られ、
同時にこの年から禁止された”スカート”対策も施された。
このMP4/フォードは、四苦八苦しながらもスペインで3位、フランスでは2位と順位を上げ、
イギリス・グランプリ(シルバーストーン)では、ジョン・ワトソン(John Watson、イギリス)が、
奇跡的な勝利を挙げたのである。
マクラーレン・チームにとっては、77年日本グランプリ以来の優勝であり、
マクラーレン・インターナショナルになって初の勝利であった。
しかしマクラーレン・チームの幸運はこの年、ここまでで終わった。
だが1982年は、ジョン・ワトソンが前年と同じフォード・エンジンでトータル39点と頑張り、
ドライバーズ・ランキング2位(フェラーリのディデエ・ピローニと同点)に。
同僚のニキ・ラウダ(Niki Lauda、オーストリア)は5位(30点)となっている。
コンストラクターズ・ポイントもこのふたりの活躍のおかげで2位(69点、1位はフェラーリ)となった。
1983年シーズンからは、グランドエフェクト・セクションがレギュレーションで禁止された。
いわゆるフラット・ボトム(平床)が要求されたわけである。

ジョン・ワトソンとMP4/1。1983年。

photo:CBSソニー出版「マクラーレンの全て」より


ポルシェ・ターボV6を搭載、破竹の進撃が
...
スポーツカーの名門、ポルシェでは1982年からF1用エンジンを
TAG(テクニック・アバン・ギャルド)で開発していた。
V6・ターボチャージャー付加のパワーユニットは、
それまでにもルノーが採用していたが、
マクラーレンはポルシェとの提携(契約は82年12月)に成功し、
ここにマクラーレン・ポルシェF1の布陣が出来上がったのである。
TAG・TTE・PO1と呼ばれるV6ニュー・エンジンを搭載した
マクラーレンMP4/1は1983年シーズン、第1戦ブラジル・グランプリから出陣した。
ドライバーは、1975、77年世界チャンピオンのニキ・ラウダとジョン・ワトソン。
ブラジルでは2位と、まずまずのスタートを切ったマクラーレン・ポルシェだが、
サンマリノ5位、デトロイト3位、カナダ6位、ホッケンハイム5,6位、
オステルライヒリンク6位....という戦績。コンストラクターズ・ポイント34点で5位で終わった。
ドライバーズ・ポイントは、ラウダが12点で10位、ワトソンが22点で6位であった。
そして1984年、ハイテクノロジーを駆使して新開発されたポルシェV6エンジンは、
ボッシュ・モトローニック製MS3電子制御システムとKKK製ツイン・ターボチャージャーとが相まって
1499cc(ボア82.0mmxストローク47.3mm)の排気量から600馬力を発生した。
シャシーはMP4/2となっている。
ドライバーはラウダとアラン・プロスト(Alain Prost、フランス)の強力コンビが配された。


ポルシェ・TAG V6エンジン

1984年のF1グランプリは、マクラーレン・ポルシェの破竹の進撃で終わった。
コンストラクターズ・ポイントも143.5点でダントツの1位。
2位は、フェラーリのわずか57.5点であった。
ドライバーズ部門では、16戦中7戦をものにしたアラン・プロストではあったが、
0.5ポイントの差でチャンピオンの座はニキ・ラウダのものとなった。
ラウダの勝利は5回だったが、2位に4回もはいり、
いっぽうプロストは2位が1回--この差が0.5ポイント差となったのだ。
まさに84年は、マクラーレン・チームの両者の一騎打ちとして、
各地はその場所を提供した形となったのである。

ターボ・ポルシェで3年連続チャンプ
1985年シーズンは、前年のラウダに替わってアラン・プロストが輝かしいチャンピオンとなり、
コンストラクターズ部門でも2年連続マクラーレンがもの(90点)にした。
翌86年は、そうはいかなかった。
マクラーレン・ポルシェの前にウイリアムズ・ホンダ(ターボ・チャージド1.5リッター・V6)が
大きく立ちはだかったからである。
ドライバーもニキ・ラウダが引退し、ケケ・ロズベルグが迎え入れられていた。
また設計者のジョン・バーナードも同年半ばにして同チームを離れ、
フェラーリ・チーム入りしてしまった。
したがって設計は残ったスタッフ、スティーブ・ニコルズとティム・ライトがこれを受け持った。
マクラーレン・ポルシェとウイリアムズ・ホンダとの間に壮絶な戦いが開始された。
そして中盤戦のイギリス・グランプリの時点ではナイジェル・マンセル(ウイリアムズ)が47点、
プロスト(マクラーレン)が43点で、コンストラクターズ・ポイントでもウイリアムズが
マクラーレンに16ポイントの差をつけていたのである。
そして、中盤から後半にかけての戦いでも、
両者は一騎打ちを演じ、最終戦オーストラリア・グランプリ(アデレード)は、
このレースでマクラーレン・チームを去るロズベルグが全86周のうち62周までを引っ張った。
しかし最初のチェッカード・フラッグを受けたのはプロストだった。
アラン・プロストの有効得点は72点、マンセルは同70点で、
薄氷のチャンピオン争いだったわけである。
しかし”プロフェッサー”の異名をとるプロストは、史上4人め(アルベルト・アスカリ、
ファン・マヌエル・ファンジオ、ジャック・ブラバム)の2年連続の偉業をここに成し遂げたのである。
だが、コンストラクターズ・チャンピオンは、3年連続マクラーレンとはいかず、
ウイリアムズにその座を譲って2位に留まった。
**
1987年もマクラーレン・チームは、ポルシェ・パワーのMP4/3で出撃した。
ドライバーはアラン・プロストとステファン・ヨハンソン(Stefan Johansson、スウェーデン)のふたり。
またもやレース展開は、マクラーレンvsウイリアムズの熾烈な戦いとなったが、
けっきょくウイリアムズ・ホンダの前にマクラーレン・ポルシェが屈した形となり、
ドライバーズ・チャンピオンはウイリアムズのネルソン・ピケとなり、
プロストは4位に終わった。
コンストラクターズ・チャンピオンシップは137点でウイリアムズが取り、
マクラーレンは76点で2位に終わった。
そしてマクラーレン・チームに栄光をもたらしたポルシェTAGも、この年を最後にF1から撤退し、
やがて押しも押されもせぬ”ホンダ・パワー・ユニット時代”が、
マクラーレン・チームに幸運をもたらし、
向かうところ敵なしの状態を作り上げていくことになるのだ。
その後ホンダ・ターボ・パワーも、F1戦線から離脱し、
マクラーレン・ベンツ時代が到来することになる。
ここに赤と白のマルボロ・カラー・マクラーレンは、ファンの前から消えたのである。

(了)