【short story/Drivers Profile】




第1回
ケケ・ロズベルグ
Keke Rosberg

illustration:Marlboro Grand Prix Guide
1950−89



 1948年、フィンランド出身のケイヨ”ケケ・ロズベルグ”は、その風貌もさることながら、
現役時代は、ダイナミックな走法に多くのファンが酔いしれたものである。
 ケケはまた、その才能に反してコンストラクーに恵まれず、多くのチームを転籍し、最後
近くに笑ったドライバーでもある。
 そんなケケのプロフィールを紹介しよう。

 は1975年までにカートを皮切りにフォーミュラV、スーパーVを経験している。
 その後フォーミュラ・アトランチック、フォーミュラ・パシフィックを走り続け、やがて南半球
を舞台としたタスマン・シリーズにも出場した。
 そんなケケを、香港の富豪テディ・イップが後押しする。F1チャレンジのチャンス到来であ
る。彼が乗った最初のF1マシンは、ブラバムを出てラルト・カーズを創立したばかりのロン・
トーラナックが製作したテオドール・コスワースであった。
 ケケは1978年、シルバーストーンで行なわれた「インターナショナル・トロフィー・レース」
に出場した。この時はシャドウ(Shadow)F1マシンを駆って最後尾からスタート、雨のハン
ディを自分の武器として活用、みごと優勝をかっさらっている。
 その後ATSチームに移籍、戦闘力不足な同マシンで5戦出場し、ドイツ、オーストリア、オ
ランダの3戦はウルフ(Wolf)・フォードに乗った。
 翌1979年シーズンは、引き続きウルフ(フォード)・マシンに乗ったが、記録すべき成績は
挙げられなかった。
 1980年はフィッティパルディ・チームから出場、初戦アルゼンチン・グランプリ(1月13日、
ブェノスアイレス)で3位にはいり、初の入賞を果たした。この年、第12戦イタリア・グランプ
リでも5位にはいり、年間6ポイントを獲得、ランキング10位となっている。
 しかし、翌81年のフィッティパルディF1の出来は悪く、5回も予選落ちの屈辱を嘗めさせら
れている(この頃、数多くのチームが資金不足に悩まされていた)。

 1982年、ウイリアムズ・チームのカルロス・ロイテマンが、前年、突然の引退表明をし、こ
の穴を埋めるべくケケに白羽の矢が当たり、同チームに迎えられたのである。
 ”水を得た魚”の如く、ケケ・ロズベルグは大活躍する。
 それもそうだろう。一級のチームで一級のマシンを操れるのである。試されるのはドライバーの
腕のほうである。
 しかし、ケケの腕も一級品であった。
 軽量コンパクトでシャシー剛性の高いウイリアムズFW08・フォードを駆ったケケ・ロズベルグ
は、第14戦/スイス・グランプリ(8月29日、フランス・ディジョンが舞台)で初優勝したのだ。
 けっきょくケケはこの年、西アメリカ、ベルギー、オーストリアで2位、オランダ、ドイツで3位、
東アメリカで4位、南アフリカ、フランス、アメリカで5位のトータル44点を挙げ、82年ドライバー
ズ・チャンピオンとなったのだ。

 が、翌83年はターボ・エンジンが大きく胎動してきた年で、ノン・ターボのウイリアムズFW
08C・フォード+ケケのコンビは、モナコで勝利を握ったが、通算27点でランキング4位。
 強力なターボ・ホンダV6を搭載したFW09Bで84年はランキング8位(20.5点、アメリカ優勝)、
85年はアメリカとオーストラリアに2回優勝し、ランキング3位(40点)となる。
 1986年、マクラーレン・チームに移籍。MP4/2CシャシーにポルシェTAG・V6エンジンを駆り、
通算22ポイントでランキング6位にはいったものの、同僚アラン・プロストとの折り合いも悪く、また
ガチガチ・セッティングも彼のドライビングになじめず、最終戦アデレイド(オーストラリア、10月26
日)を最後にF1レースから引退した。
 陽気で快活の性格。ダイナミックな走法(柔らかめのセッティングを好んだ)で、多くのF1ファンを
擁したケケ・ロズベルグ。今でも彼の人気は高い。
 
 グランプリ出走回数:114回(1978〜1986)
 優勝回数:5回
 2位:8回、3位:2回
 ポール獲得回数:5回
 ファステストラップ獲得回数:3回
 世界チャンピオン:1回(1982)