【short story/Drivers Profile】




第2回
ジェームス・ハント
James Hunt

1976 F1 Champion.
James Hunt & McLaren M23/DFV

illustration:Marlboro Grand Prix Guide
1950−89



 ェームス・ハント(James Hunt)のファンだという人は、日本人にも多い。
それは単に、1976年にワールド・チャンピオンになっているからだけではない。
チャンピオンを決めた同年10月24日の、「F1世界選手権イン・ジャパン」の走りが、
強烈な印象となっている人も多いはずなのだ。
(私もそのひとりだが)
決勝レース、路面は水浸し。そんな富士スピードウェイの右まわりり4.3kmコースで、
畏れを知らぬ走りを見せつけたのを、鮮烈に思い起こす。
観衆は7万2000人。雨の中スタートを切った、そのレースで、
ジェームス・ハントは実に61周までトップを独走していたのである。
73周レースの結果は3位で、得点4を加え、トータル69点。
この時点でニキ・ラウダ(フェラーリ)を1点差(68点)に抑え、晴れの王者となったのである。
(レースの模様はいずれ「ドラマチック・レース・シリーズ」で採り上げる予定)

ェームス・ハント、1947年8月29日生まれ。イギリス人。
父親は証券業をロンドンで営む、中流家庭の環境の中でジェームス(ハント)は育った。
彼は、はミニのレースからモータースポーツの世界にはいり、
次いでフォーミュラ・フォード、F3へとステップアップした。
マシンはブラバム〜マーチ〜ロータス〜マーチと乗り継ぎ、1972年にはF2へと進んだ。
そして翌1973年、サーティーズTS15でノンチャンピオンシップ・レースの
レース・オブ・チャンピオンズに出場、初のF1レースで3位にはいったのだ。
話は前後するが、実はハントは、F3時代にマーチ・チームにはいっていたが、
走行も粗っぽく、アクシデントの経験も何度かあり、
「ハント・ザ・シャント(壊し屋)」の嬉しくないニックネームを頂戴していた。
71年、マーチF3チームから彼が解雇された折り、
ある友人がしょげたハントを見かねてチーム新結成の話を切り出したのである。
今で言う”マジ”で、である。
その友人とは、財産家のロード・アレクサンダー・フェルマー・ヘスケス卿で、
新チーム結成の前段階として購入したマーチF3で先ずは「ヘスケス・チーム」でエントリー。
さらに73年にはマーチ731フォードを購入し、ハント・ドライブで
F1グランプリ(レース・オブ・チャンピオン戦後)に大胆にも駒を進めたのである。
でっかい話ではある。
結果、なんとフランス:6位、イギリス:4位、オランダ:3位、アメリカ:2位にはいり、
総得点14でランキング8位に着けたのである。
ルーキー、しかも新興プライベート・チームで、
ノースポンサー(ヘスケス卿のポリシー)という環境の下での快挙であった。
この快進撃の裏には、マーチ・エンジニアリングからエンジニアの
ハーベイ・ポスレスウエイト(Harvey Postlethwaite、ポスルスという人もいる)を引き抜き、
マーチ731をコンペティティブに仕上げた堅実さもあったのだ。
世界のF1ファンから歓迎を持って受け入れられたのはいうまでもない。


ヘスケス308/DFV 
photo:FIA Year Book of Automobile Sport
して翌1974年には、ポスレスウエイトの設計によるニュー・マシン「ヘスケス308」を完成したのである。
マーチ731をポストレスウエイト流にアレンジした、いわゆる”へスケス731”と較べても、
ヘスケス308は、かなりコンパクトな仕上がりを見せていた。
そそり立つインダクション・ポッドも308の大きな特徴であった。
74年シーズン、この308/DFVをドライブしたジェームス・ハントは、
ノンタイトル戦のシルバーストーン・インターナショナル・トロフィー・レースを幸先良く制したのだ。
そして臨んだチャンピオンシップは、スウェーデン、オーストリア、アメリカの3レースに3位にはいる健闘を見せた。
この結果、トータル・ポイントは15点で前年同様ランキングは8位であった。
翌1975年、このコンビは緒戦から飛ばした。
アルゼンチン(ブェノスアイレス)で2位、第2戦ブラジル(インテルラゴス)で6位にはいり、
このまま突っ走るのではないか、と思われたが、その後第7戦までは低迷が続く。
が、第8戦、ザンドボールトで行なわれたオランダ・グランプリ(6月22日)で、ハントは初優勝を遂げた。
それは、まさに因縁ではないかと思わせるような環境下においての勝利であった。
ライバルはフェラーリに乗るニキ・ラウダ。
そして決勝レースでは、(スタートから)路面がウエット。そしてドライに変化したことである。
結果はハント1位、ラウダ2位で最終的にラウダがこの年のチャンピオンとなったのだ。
が、それはともかく、ハントはこの後、第9戦/フランスで2位、第10戦/イギリスで4位、
第12戦/オーストリアで2位、第13戦/イタリアで5位、最終戦/アメリカで4位とコンスタントに入賞を続け、
総得点33点で4位にはいったのである。
ホットそのものの走りを見せるハント、いっぽう走りも含め、あくまでもクールそのもののラウダ。
ハントとラウダの、因縁ともいうべき戦いは1976年シーズンに最終局面を迎えた。

豪とはいえ、F1チームを維持していくのは、そうたやすいことではない。
ましてや、スポンサーをつけないでやっていこうというのは、姿勢は立派でも無茶すぎるとも言えよう。
1976年、ヘスケス卿は無念にもチームを手放すことを決意した。
このころ、308シリーズは”D”タイプとなっており、一部は同チームのマネージャーの手に渡り、
DFVエンジン搭載で76年シーズンを戦ってはいる。
余談だが、”C”タイプ2台は、
フランク・ウイリアムズ率いるウォルター・ウルフ・レーシングに売却され、
ポスレスウエイトも同時にウルフ・チームへ移籍した。
このCタイプは、さらにモディファイされウルフ・ウイリアムズ(FW05)となって、
同じく同年のグランプリに出場している。
話を戻そう。
ヘスケス卿がチームを解散する決意をしたのは、実はもうひとつ重大な出来事があったからなのだ。
マクラーレン・チームのエース・ドライバー、エマーソン・フィッティパルディ(72,74年チャンピオン)が、
新(自)チーム結成のため同チームを脱退し、
メイン・スポンサーのマルボロがフィッティパルディの替わりにハントに眼をつけ、
彼もこれを受諾した事情があったからである。
いうなら、ハントあってのヘスケス・レーシング・チーム。
そこから目玉が抜け落ちたた形となったのだ。
逆にいうと、ハントのマクラーレン入りがなかったならば、
ラウダとの壮烈な76年の王者争いはなかったことになるのだから、分からないものである。

ずれにしろ、ハントはマクラーレンのナンバー1ドライバーとなった。
そして強力な”M23”マシンを手に入れた。
ここにフェラーリ312T2を駆るニキ・ラウダとの一騎打ちが開始された。
ともあれ76年シーズンの、両者の入賞内容を見てみよう。
第1戦/ブラジル:ラウダ優勝
第2戦/南アフリカ:ラウダ優勝、ハント2位
第3戦/西アメリカ:ラウダ2位
第4戦/スペイン:ハント優勝、ラウダ2位
第5戦/ベルギー:ラウダ優勝
第6戦/モナコ:ラウダ優勝
第7戦/スウェーデン:ラウダ3位、ハント5位
第8戦/フランス:ハント優勝
第9戦/イギリス:ラウダ優勝
第10戦/ドイツ:ハント優勝
第11戦/オーストリア:ハント4位
第12戦/オランダ:ハント優勝
第13戦/イタリア:ラウダ4位
第14戦/カナダ:ハント優勝
第15戦/東アメリカ:ハント優勝、ラウダ3位
最終戦/日本:ハント3位

 
James Hunt
photo:日本グランプリ 発表資料
のように、ジェームス・ハント/マクラーレンM23とニキ・ラウダ/フェラーリ312T2の戦いは熾烈を極めた。
第10戦・ドイツ・グランプリまでは、ニキ・ラウダが5勝、ハントが2勝と、
ラウダ有利に展開した。
が、8月1日、ドイツ・グランプリが行なわれたニュルブルグリンク・サーキットで
思いもかけないアクシデントがニキ・ラウダを襲ったのである。
事故の詳細は別稿に譲るが、いずれにしろフェラーリ・マシンは炎上し、ラウダは大火傷を負ったのである。
辛うじて一命を取り留める大事故で、ラウダの同シーズンのチャンピオンはこれで遠のいた、
と誰もが思った。
しかし、そのラウダは不死鳥のように蘇った。
事故から約1ヶ月後のイタリア・グランプリに出場し、4位に入賞したのである。
事故の恐怖心を振り払うための、あえての出場と見られたが、
それにしても、レースに対してのすさまじい執念と精神力である。
ステアリングを握る手、さらに熱で別人のように変わってしまった顔面と眼の部分。
視点を定めるのにも不自由なほどの状態での4位完走である。
だが、当然といえば当然だが、ラウダはこの事故以後、マシンの操縦には
細心の注意を払ってドライブしていたのが、傍目にもはっきりわかった。
そういう状態でのハントとの日本決戦である。
土砂降りの雨の中、2周で自らマシンのエンジンの火を止めた行為も、
分かりすぎるくらい、その心情は分かったものだ。
この時点で1ポイント、ラウダのほうが上で、より王者に近いところにいたにもかかわらず....。
ラウダのほうの話が長くなってしまったが、ハントは結果的に1976年のワールド・チャンピオンとなった。
(ちなみにニキ・ラウダは翌1977年のチャンピオンになっている/75年、84年と全部で3回)

ントの名誉のために付け加えておかなくてはならないのは、
チャンピオンとなった76年シーズンは、ポールポジションを都合8回、フロントローからの
スタート11回を数えたということである。そのうえでの6回優勝ということなのだ。
乗りに乗った、走りの冴えを見せたのである。
が、1977年のハント/M26はイギリス、東アメリカ、日本(同じく富士sw)の、3回の優勝でランキング5位(40点)、
78年はトータル8点で13位と、マシンの不調もあったが、絶好調の76年とはまるで別人のような走りと成績であった。
そして1979年、ハントはマクラーレンを去って、
かつての同僚ハーベイ・ポスレスウエイトがいるウルフ・レーシングに移って7戦を走った後、引退した。
その後、さっそうとTVカメラの前でインタビューしているハントの姿(TV解説者)を
ご記憶のファンも多いに違いない。
最後に、ラフそのものに見えるハントの性格だが、
意外に神経は細かく、特にスタート前は極度の神経質であったという。
もっともスタートしてしまえば、ダイナミックな走り屋に変身するのが常ではあったが...。

(了)


James Hunt
photo:M.Arakawa

 グランプリ出走回数:92回(1973〜1979)
 優勝回数:10回
 2位:6回、3位:7回
 ポール獲得回数:14回
 ファステストラップ獲得回数:8回
 世界チャンピオン:1回(1976)


1977年日本グランプリ。
スタートを待つハント/M23、M26.

photo:K.Shirai

シリーズ「歴戦の勇士」第1回:ケケ・ロズベルグ