年表/抄録 


国内

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スポーツ/プロトタイプの超ビッグ・レース「1969年/日本グランプリ」。
10万3000人の大観衆が見守る中、決戦(10/10)は開始された。
富士スピードウェイ・フルコースのヘアピンに突入する1周めの各マ
シン。ポルシェ917,トヨタ7,ニッサンR382などがしのぎを削った。


意外にも、日本のモータースポーツの原点は古い。日本の自動車産業史をひもといてみると、まず大正4年には目黒競馬場でアメリカ人が持ち込んだ4台のマシンにより自動車レースが行なわれたが、興行的には失敗、とある。そして大正11年秋に、東京・洲崎の埋立地で、報知新聞社主催による日本最初の自動車レースが開催されている。2輪の世界では、昭和30年代に福岡・雁ノ巣や浅間山麓でレース〔火山レース)が開催されている。しかしながら、これらエンスージアストによるモータースポーツ活動は、ここでは省略させていただいて、大戦後の、国際コース・鈴鹿サーキット建設前後から年表をはじめる。    2001/1/22



1962年{昭和37年}
 9月、三重県鈴鹿市近郊にフーゲン・ホルツ氏基本設計になる1周6.004kmの国際級コース(鈴鹿サーキット)完成。前年には国際レース進出のパイオニア、ホンダが2輪世界グランプリ125cc、250cc両クラスでメイクス・チャンピオンとなっており、本格的モータースポーツ・レース開催の機運が高まっていた。そして2ヶ月後の11月、同サーキットでバイクによる「第1回全日本選手権ロードレース」が開催された。2日間に集まった観衆は実に28万人。2輪、4輪ファンに関係なく、初めて見る本格的レースに
酔いしれたのである。


鈴鹿サーキット・コース図。 
現在は最終コーナー手前にシケインが設けられている



1963年 
3月、国内モータースポーツの統轄団体(ACN)「JAF」=日本自動車連盟が誕生。
 5月3〜4日の両日にわたって「第1回日本グランプリ自動車レース大会」が、前年と同じ鈴鹿サーキットで開催された。メインイベントは、海外招待選手による国際スポーツカー・レース。アストン・マーチンDB4、フェラーリ250GT、ジャガーDタイプなど、マニア垂涎のマシンが数多く出場し、大会に彩りを添えた。各クラスの優勝者を列挙する。
国際スポーツカー:ピーター・ウォア/ロータス23コスワース
国内スポーツカーB3:横山達/ジャガーEタイプ
同B2:田原源一郎/フェアレディ1500
同B1:井口のぼる/DKW1000
ツーリングカーC6:多賀弘明/クラウン
同5:式場荘吉/コロナ
同4:鈴木義一/VW
同3:立原義次/日野コンテッサ
同2:深谷文郎/パブリカ
同1:望月修/スズキ・スズライト


ロータス23コスワース
 photo:k.shirai/ミニコピー・フィルムで撮影

Lotus23Cosworth by NGK


1964年
 第1回日本グランプリに集結した各国産車は、レベルを飛躍的に向上させて5月2〜3日の「第2回日本グランプリ自動車レース大会」に出場してきた。その裏には、第1回大会の結果が、宣伝の好材料となると知った自動車メーカーが本腰を入れ、これに対処した事情がある。本来は、この大会の目玉は、フォーミュラカーによるJAFトロフィー・レースだったが、ファンの興味の焦点は違った。
 というのは、GT2クラス(グランドツーリングカー)は、トライアンフTR4,MGB、ロータス・エラン、サンビーム・アルパイン、それに国産スポーツカーのフェアレディ1500,ベレット1600GT、スカイライン2000GTなどが出場する、いわば日頃見慣れた外車スポーツカーvs国産GT/スポーツカーの対決図式が、ホモロゲーション(型式認定)を受けたばかりのGT/スポーツカー、ポルシェ904GTSのエントリーによって、様子が一変したのである。
 レースは、このポルシェ904GTSを数台のスカイライン2000GTが追いかける形で展開し、最終的にはポルシェの勝利で終わったというものの、一時は必死で追い上げる1台
のスカGが先頭に躍り出て、満場総立ちで喝采を受けるシーンもあった。

こうして、大会としては成功裡に終わったグランプリだったが、ポルシェvs国産マシンの対決図式は、その後永らく
つづくことになるのである。
各クラスの結果は次のとおり。
JAFトロフィー:ミカエル・ナイト/ブラバムBT6コスワース
GT3安田銀治/ジャガーE


ポルシェ904GTSを従えて
ストレートを突っ走るスカイライン2000GT。

ニッサン/プリンスのカタログから


GT2:式場壮吉/ポルシェ904GTS
GT1:ロニー・バックナム/ホンダS600
T6:大石秀夫/グロリア
T5:生沢徹/スカイライン1500
T4:田中健二郎/ブルーバードSS
T3:加藤爽平/三菱コルト1000
T2:浅野剛男/パブリカ
T1:スバル360
なお、この年は11月に2輪の世界選手権「第2回日本グランプリ・ロードレース大会」も開かれている。
また、同年3月には国内の2リッター・ツーリングカーによる「第1回ナショナル・ストックカー・レース」が埼玉県・川口オートレース場(ダート)で開催されている。

Porsche 904 GTS


1965年  
 この年のはじめ、JAFが国内競技規則を施行した。新しく自動車競技の組織に関する規定など、スポーツ施策を打ち出したものである。第3回日本グランプリ・レースは中止となっている。


プロトタイプ「プリンスR380」の発表写真。
ニッサン/プリンスのカタログから

10月、プロトタイプカー「プリンスR380」による国際スピード記録挑戦が、茨城県・谷田部の自動車高速試験場で行なわれ、4つの新記録を樹立。11月、日本初の耐久レース、鈴鹿300km開催。12月5日には高速コースが売り物の富士スピードウェイが静岡県・小山市に誕生している。(7月18日、船橋サーキットで「CCC」開催


1966年〜1967年
1月、第1回鈴鹿500km開催。3月、第1回全日本ドライバー選手権レースが行なわれる。
5月3日、新装なった富士スピードウェイ(1周6km/30度バンクあり)で第3回日本グランプリ・レース開催。
第2回グランプリで、スカイラインGT勢の前にポルシェ904GTSが立ちはだかったように、今回はプリンス自動車の必勝マシン(グループ6/プロトタイプカー)、R380勢の前にポルシェの新鋭マシン、カレラ6が立ちはだかった。冠レースのGP2クラスには他にトヨタ2000GT、デイトナ・コブラ、ジャガーEタイプなどが出場したが、結果はR380・2台が1〜2位(優勝/砂子義一)を独占して前回の雪辱を果たした。
10月には、トヨタ2000GTによるスピード記録挑戦(同上)が行なわれた。また同じ10月には、富士スピードウェイで、本場インディ500マイルに出場しているマシンを集結した「インディアナポリス・インターナショナル・チャンピオンレース」が開催され、ローラ・フォードに乗るジャッキー・スチュワートが優勝している。

 
プリンスR380(左)とトヨタ2000GT。 NGKの広告から

翌1967年の第4回日本グランプリ・レースは、場所も同じ富士スピードウェイで行なわれた。
しかも出場車の主役は、名前をプリンスからニッサンに変えた4台のR380/Aー2型勢と3台のポルシェ・カレラ6(906)軍団。
激しいレース展開の末、優勝は生沢徹ポルシェ、2位にR380がはいって決着がついた。
またこの年は、富士24時間や富士1000kmの耐久レースも行なわれトヨタ2000GTが栄冠を勝ち取っている。JAFがCSI(国際スポーツ委員会)の議席を獲得。


1967年「第4回日本グランプリ」。
生沢ポルシェ・カレラ6が優勝。

出典:「AUTO SPORT YEAR’68」より



1968年
「’68日本グランプリ・レース」は、かつてないスケールで行なわれた。
5月3日の本番には、11万人もの大観衆が、ビッグ・レースを一目見ようと富士スピードウエイに押し寄せたのだ。
出走車は、グループ7マシンを中心にした25台。
これまでの2リッター・スポーツ/プロトタイプカーによる日本グランプリの図式は、この年から様相が一変した。
[T(トヨタ)N(ニッサン)T(タキ・レーシング)対決」は、一気にビッグ・マシンによる対決図式となったのである。
ニッサン・チームは、シボレーV8・5.5エンジンを搭載した可変ウイング付きR381,チーム・トヨタは3リッター・トヨタ7,そしてタキ・レーシングはやはりアメリカン・ビッグV8エンジンを搭載したローラT70MK3を繰り出したのである、
前年の主役、R380は進化し、カレラ6と、その上級版カレラ10も共に出場した。
スタートは、2台のR381が速かった。これを追って2台のローラMK3、トヨタ7、カレラ10がつづいた。
アメリカン・V8・ビッグパワーは強力で、特にR381は終始レースをリードして、80周・480kmを走り抜き優勝した。
結果は次のとおり。
総合優勝 クラス4・1位 北野元/ニッサンR381
2位 クラス2・1位 生沢徹/ポルシェ・カレラ10
3位 クラス2・2位 黒沢元治/ニッサンR380
4位 クラス2・3位 横山達 /同
5位 クラス2・4位 大石秀夫/同
6位 クラス4・2位 砂子義一/ニッサンR381
7位 クラス2・5位 片平浩/ポルシェ・カレラ6
8位 クラス3・1位 大坪善男/トヨタ7
9位 クラス3・2位 鮒子田寛/トヨタ7
10位 クラス1・1位 吉田隆郎/ダイハツP5


1968年日本グランプリ、スタートの一瞬。
1台のR381は、すでに画面から消えている。
まさにビッグ・マシンの激突であった。
出典:「AUTO SPORT YEAR’69」より


Toyota7&LolaT70MK3

NissanR381

また、この年の11月23日、排気量無制限の2座席レーシングカーによる
「日本CAN−AM」(ワールド・チャレンジカップ/富士200マイル・レース)も行なわれ、
マクラーレンM6Bフォード(シェルビー・アメリカン)に乗るピーター・レブソンが優勝している。


1969年

この年から、JAFが主催する「グランプリ」は、春と秋の2大会となった。
春はフォーミュラカーによる「JAFグランプリ」、そして秋がスポーツ/プロトタイプ/2座席レーシングカーによる「日本グランプリ」である。
前年に強烈な印象を残して終わった「’68日本グランプリ」は、大会が終了した時点から、翌年のグランプリをターゲットに
各メーカー/チームが必勝態勢でマシンの開発にはいっている。
それは、それぞれのメーカーが威信に賭けての戦いの日々であったといえよう。
こうして迎えた10月10日の「’69日本グランプリ」。
決戦の場所は、これまでと同じ富士スピードウエイの、バンクを含むフル6kmコースである。
参加車両は、ニッサンが6リッター・V12エンジンのグループ7カー「R382」、トヨタが5リッター・V8エンジンの「トヨタ7」。
いすゞも5リッター・V8(シボレー製)エンジン搭載のグループ7カー「いすゞR7」を登場させた。
[TNT」の最後、タキ・レーシングは、ポルシェ・ワークスと組む形で最強の態勢をとった。
ル・マン24時間レース出場のポルシェ917(4.5リッター/空冷フラット12),同908(3リッター・同フラット8)、同910(2リッター・同フラット6)を揃えたのだ。
そして、これらに乗るドライバーもポルシェ・ワークスのジョー・シファート、ハンス・ヘルマン等を呼び寄せたのである。
CAN−AM仕様のマクラーレンM12シボレーもマイク・ヘイルウッド/ローサー・モチェンバッハで参加した。
公式予選では、3台のR382,同じく3台のトヨタ7がこの順番で1〜6位を占め、7位に可変ウイングを禁じられたポルシェ917が、8,9位にトヨタ7、10位にローラT160が着けた。


31台の出走車が、猛然とダッシュ!
「’69日本グランプリ」は、文字どおりビッグ・マシンによるビッグ対決そのものであった。
出典:[AUTO SPORT YEAR’70」より

午前11時10分、日章旗が一閃し、世紀の戦いの火蓋は切られた。
写真のように、出走31台の中でトヨタ7勢のダッシュが鋭かった。
1周終わった直線には、トヨタ7〜917の順で現れた。3台のR382勢がこれにつづく。
3周めのヘアピン・カーブではポルシェ917がトップ。つづいてトヨタ7、ニッサンR382の順。
7周め、1台のR382が917,トヨタ7を抜き去り首位に。
12周めには1〜3位の座をR382勢が固めてしまった。
120周・720kmのレースは、中間点の60周前後に燃料補給、ドライバー交代等のドラマを織り交ぜながら進行。
当然ながら、メカニカル・トラブルでピットイン、修復の後再走、あるいはそのままリタイアするマシンもある。
720kmの長丁場、順位交替も頻繁に起こる。
3時間42分21秒47後、日本グランプリ史上最大のレースは、ついに終止符を打った。
平均194.281km/hの猛スピードで、最初にゴールラインをかすめ去ったのは、黄色にペインティングされたニッサンR382・21号車であった。

レース結果は次のとおり。
総合優勝 クラス5・1位 黒沢元治/砂子義一 ニッサンR382
2位 クラス5・2位 北野元/横山達 同
3位 クラス5・3位 川合稔  トヨタ7
4位 クラス5・4位 高橋利昭/ビック・エルフォード トヨタ7
5位 クラス5・5位 久木留博之/細谷四方洋 トヨタ7
6位 クラス5・6位 ジョー・シファート/デビッド・パイパー ポルシェ917
7位 クラス4・1位 ハンス・ヘルマン/田中健二郎 ポルシェ908
8位 クラス3・1位 風戸裕/長谷川弘 ポルシェ910
9位 クラス2・1位 高野ルイ/吉田隆郎 ロータス47GT
10位 クラス5・7位 高橋国光/都平健二 ニッサンR382


Porsche917

Toyota7

NissanR382


1970年
5月3日、JAFグランプリ開催。
1969年、つまり前年のF1世界選手権・チャンピオン、ジャッキー・スチュワート(マトラMS/フォード)が出場するということで、この大会は大いに話題を呼んだ。
富士スピードウエイに集まった観衆は6万8000人。
その観衆の目の前で、生沢徹選手が「選手宣誓」を拒否したことでも、話題になった大会だった。
レースは、ブラバムBT30/FVC(1800cc)に乗るジャッキー・スチュワートが50周・300kmを1時間33分00秒99(平均193.514km/h)で走り抜き優勝。
彼を追った、予選2位の生沢徹(三菱コルトF2D/R39=1600cc)は、途中マシン・トラブルで戦列を去った。
サイドラジエター、フルカウリングで、時代を先取りしたボディ・デザインのコルトF2Dに乗る永松邦臣は、ワゴット2000ccエンジン搭載のミルドレンに乗るマックス・スチュワートと
激しい2位争いを演じたが、けっきょく3位となった。
大会の目玉に前年のF1チャンピオン、そしてタスマン・シリーズ・チャンピオン(グレイム・ローレンス)、69年JAFグランプリ優勝者(L.ゲオゲーガン)等を呼び、
話題性を重視した主催者、いっぽうで、待遇面等で不快感を表し、造反宣言をした選手代表.....。
これらの問題を内包した日本の頂点のレースに、「一石」を投じた大会でもあった。
そして、秋に行なわれるスポーツ、プロトタイプ、2座席レーシングカーによるビッグ・イベント「’70日本グランプリ」は、5月23日、急遽中止が決定された。
’70JAFグランプリ・レース結果
総合優勝 クラス2・1位 J.スチュワート ブラバムBT30
2位 クラス2・2位 M.スチュワート ミルドレン・ワゴット
3位 クラス1・1位 永松邦臣 コルトF2D/R39
4位 クラス2・3位 G.ローレンス フェラーリ・ディノV6
5位 クラス1・2位 アリスター・ウオーカー ブラバムBT23C
6位 クラス2・4位 レオ・ゲオゲーガン ロータス59
7位 クラス1・3位 木下昇 KYスペシャル
8位 クラス1・4位 漆原徳光 三井メタルーブspl.
**
また、この年は、新設サーキットが相次いでオープンしている。
6月21日 日本海間瀬サーキット
6月22日 筑波サーキット
7月4日 北海道スピードウエイ(HISCO)
**
3/22 「ストックカー富士300キロ・レース」
9/6 「富士インター200マイル・レース」
10/10 「全日本オールスター・レース」 
富士インター200マイルには、マニュファクチャラーズ・チャンピオンシップに出場している、フェラーリ512Sが参加、
5リッター・V12エンジンの威力にものをいわして、ジャン・ピエール・モレッティが優勝している。


1971年
’71日本グランプリ(5月3日)は、この大会に必勝を期した三菱チームが開発した「R39B」(2リッター・280ps/9000rpm=最終的には290馬力)エンジンが威力を発揮し、1〜2位を独占して終わった。
また、それまでの1600cc・R39(240ps/9500rpm)は、田中健二郎、風戸裕両選手に貸与の形がとられ、クラス1〜2位となった。
3位はロータス69/コスワースFVC(1800cc、240ps/8500rpm)に乗った生沢徹がはいった。
’71日本グランプリ・レース結果
総合優勝 クラス2・1位 永松邦臣 コルトF2000
2位 クラス2・2位 益子治 コルトF2000
3位 クラス2・3位 生沢徹 ロータス69
4位 クラス2・4位 グレイム・ローレンス ブラバムBT30/FVC
5位 クラス2・5位 レオ・ゲオゲーガン ロータス59/ワゴット
6位 クラス1・1位 風戸裕 ブラバムBT30/R39
7位 クラス1・2位 田中健二郎 マグナム・コルト1600
8位 クラス1・3位 J.ウオーカー エルフィン600B/FVC
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3月末、山陽スポーツランド・中山サーキットが誕生している。
2座席レーシングカーによる「フジ・グランチャンピオン・レース」の第1戦(通称グラチャン、4月25日)も開催された。
西の鈴鹿では、フォーミュラによる「グレート20ドライバーズ・レース」も行なわれた。


永松邦臣が駆るコルト2000。

生沢徹のロータス69。


1972年
5月3日に、この年も’72日本グランプリ」がフォーミュラカーで行なわれ、1964年F1ワールド・チャンピオンのジョン・サーティーズ(サーティーズTS15)が出場、優勝をさらったが、
皮肉にも富士スピードウエイに押し寄せた観客のお目当ては、スカイラインGTRvsサバンナRX3に代表されるツーリングカー・レースであった。


1973年
’73日本グランプリの内容は、”小物にまつわる逸話”をご覧頂きたいが、いずれにしろ、
日本のモータースポーツの流れは、フォーミュラカーによる(JAF主催)日本グランプリから、各オーガーナイザーによる独自のレースへと移っていったことは間違いない。
ただ、この年はレース中のアクシデントで重軽傷者、死亡者が出る事故が起こり、、安全性へ大きな警鐘が鳴らされた。


’73日本グランプリを制した
黒沢元治のマーチ722/BMW。

30度バンクを行く「富士GC出走車」。
安全性が問われるケースもあった。


(つづく