(小物にまつわる逸話紹介)

世界を驚愕させた驚異のマシン
ホンダRA272

65年メキシコを制す!


1964年ドイツ・グランプリ、その舞台となったニュルブルクリンク・サーキット{8月}でベールを脱いだ1台のマシン、それがF1界を震撼とさせた、わがホンダの「タイプRA271」であった。
純白のボデイに日の丸をあしらったそのマシンは、V型12気筒エンジンが実に横置きにマウントされていたのである。それまでの常識をくつがえすパワーユニット搭載方式だったのだ。そのRA271のパワーユニットにいったん火がはいった時、エキゾーストノートは、「ホンダ・ミュージック」へと変身し、マシンはサーキットへ躍り出た。
だが、デビュー戦で好成績を残せるほどF1の世界は甘くない.。残る64年シーズンと、翌65年前半と中盤戦、進化したRA272は期待に応えながらも3位以内にはいることはなかった。
が、1965年シーズンの最終戦、しかも1.5リッター・フォーミュラ最後の掉尾を飾るメキシコ・グランプリ{10月24日}で、リッチー・ギンサー{アメリカ}が劇的な勝利を納めたのである。デビュー以来1年2カ月ぶりの優勝であった。それは同時に国産レーシン・マシン世界初制覇の歴史的瞬間でもあった。
ちなみにホンダは、F1参戦201戦{2000年9月24日/アメリカ・グランプリ終了時点}で71勝130敗の成績を残し、今なお挑戦続行中なのは諸兄ご承知のとおりである。

 写真が、65年メキシコ・グランプリに優勝したときの記念カーバッジ。「タイプRA272」を中央に配し、
 下部にメキシコ国旗をあしらったカラフルなもの。直径約90ミリ。


                  

*typeRA272specification*
chassis=monocoque+pipeframe suspension=double wishbone type tire =goodyear/f:5.50-13 r:7.00-13 brake=disk/girling fueltankcapacity=180litre overall length[mm]=3950 width=1675 height=793 wheelbase=2300
tread f:1350 r:1370 groundclearance=80 weight=498kg
powerunit=watercooled DOHC 4valve/cylinder 12cylinder 60degreeV bore&stroke=58.1x47mm displacement=1495cc
compression ratio=10.5:1 ignition system=battery magnetic ignition maximum horsepower=over230ps/11500rpm
oil lubrication system=dry sump clutch=dry, multiplate carburation=honda mechanical fuelinjection system transmission
=6foward speed,1reverse engine weight=215kg[dry] maximum speed=over300km/h


船橋サーキット、”こけら落とし”のビッグレース
カークラブ・チャンピオンシップ・レース
(1965/CCC


全長約18ミリ。
赤,黄、青色のシンプルなピンバッジ。


 この年、本来は第3回日本グランプリ・レースが開催されるはずだった。が、諸もろの事情で中止された。替わって行なわれたのが「CCC」レースである。カークラブ・チャンピオンシップ(全日本自動車クラブ選手権レース大会}の名称のとおり、クラブの対抗競技として、クラブマン自身が組織・運営・競技執行を執り行なった初のイベントで、大観衆がこれを後押しし、内容的にも大成功であった。
舞台は、千葉県船橋市に新設されたテクニカルなコース・レイアウトを持つ船橋サーキットで、真夏の7月18日に開催された。
結果(優勝)は以下のとおりだが、特筆しておきたいのは、”天才”の呼び声高かった浮谷東次郎選手の活躍ぶりと、GT2出場車スカイラインGTに積まれたヘミヘッド(半球形燃焼室)エンジンの存在であった。
GT1:浮谷東次郎/トヨタ・スポーツ800
GT2:浮谷東次郎/ロータス・エラン・レーシング
T1:津々見友彦/ブルーバードSS
T2:杉田幸朗/スカイラインGT


日本初の12時間耐久レース
過酷な、真夏のレースを制したのはトヨタ1600GT・RTX 
1967年/鈴鹿12時間耐久レース


直径約90mm。深い赤色を基調とした落ち着いたデザインのプレート。

当時、世界の12時間レースといえば、アメリカ・フロリダ州の「セブリング12時間」が有名で、ポルシェ907,同910、フェラーリP3、同P4,シャパラル2F{チャパラルともいう}、フォードGT40などが出場し、メーカー選手権{Manufacturers Championship}を競っていた。
日本でも、耐久レース開催の機運が盛り上がり、鈴鹿サーキットでは、この12時間レースを間にはさみ500km、1000kmを、そして富士スピードウェイでも24時間、1000km、12時間の耐久シリーズをそれぞれ行なった。
さて表題の「鈴鹿12時間」は、1967年7月23日、出場42台のマシンがル・マン式で午前10時スタートを切った。
ダイハツのプロトタイプカー「P3」が序盤を、ルーフをファストバックとした「フェアレディ2000」と、DOHC・1600cc・4気筒エンジンに換装された「トヨタ1600・RTX]などのワークスカーが、その後のレース展開を形成した。
気温が30度を越えた午後2時前、それまでのリーダーだった北野元/田中健二郎組のフェアレディに、代わってトップに立った福沢幸雄/鮒子田寛組のトヨタRTXがその後も順調に飛ばし、午後10ジャスト、晴れのチェッカードフラッグをかいくぐった。記録は1周6km強のコースを248周{1489km}し、平均速度は123.983km/hであった。
ちなみに、このレースでの前記以外の出場車はホンダS600、同800、ベレット1500,同1600GT、ブルーバード1300SS、シルビアなどであった。


砂子R380、ポルシェ・カレラ6を破る
「第3回日本グランプリ・レース」
富士スピードウエイ/6kmフルコース


全面ゴールドに黒字仕上げのシンプルなデザイン。
レース内容は年表をご覧ください


生沢ポルシェ・カレラ6、R380勢を軍門にくだす!
「第4回日本グランプリ・レース」
富士スピードウエイ/6kmフルコース


白地を基調に赤と黒でデザインされたもの。
レース内容は年表をご覧ください。


市販間近のトヨタ2000GTに凱歌
「1967年鈴鹿500km耐久レース」


全面金色に墨文字のデザインが
斬新だった。

「67年鈴鹿耐久シリーズ」の第1戦。走行距離500kmは、東京〜大阪間に匹敵する。レースは3月26日、52台の出走車がル・マン式でスタートを切った。
今でもスポーツ・マニア垂涎のマトでもある2台のトヨタ2000GTプロトタイプカーがまず飛び出し、1台がエンジン・トラブルで序盤に消えたとはいうものの、残る1台が84周をほぼ無難に走り切り、平均126.915km/hのスピードで優勝(鮒子田寛)した。総合2位は軽量スポーツカーのトヨタS800,3位にホンダS800がはいり、フェアレディ1600をはじめとするスポーツ、GTカーを食った形で終わった。


日本初の”国際フォーミュラカー・レース”
「1969年JAFグランプリ」
富士スピードウェイ
 6kmフルコース


フォーミュラカーのイラストを配した
きれいなデザインのもの。

この年から、日本のグランプリ・レースは春と秋の2回(いずれも富士スピードウェイ)行なわれた。春に開催されたのがこの[JAFグランプリ」だった。
オーストラリアとニュージーランドから6人のドライバーが参加した。迎え撃つ日本勢は、三菱コルトF2C・3台を含め11台。
予選トップは、コルトF2Cに乗る生沢徹(テツ・イクザワ・レーシングパートナーシップ・エントリー)
。2〜6位にいわゆるタスマン勢、そして7〜8位が2台のコルトF2C(益子治、加藤爽平)であった。
出走台数17台による決勝レースは、1周めの30度バンクで首位に立った生沢コルトが、追いすがるミルドレン・ワゴットのマックス・スチュワートとのあいだで激しい戦いを繰り広げた。が、11周めの終わりで生沢車が緊急ピットイン、再走したがけっきょく電気系トラブルでリタイアした。
トップのスチュワートも、ロータス・レプコに乗るレオ・ゲオゲーガンにその座を奪われ転落していった。
40周を走り終わって、トップでチェッカード・フラッグを受けたのは、1位・ゲオゲーガン、2位にロロ・レビス(ブラバム・コスワース)、そして3位に加藤コルトがはいった。


「全日本レーシング・ドライバー選手権シリーズ」
1968年&1970年
富士スピードウエイ・左まわり4.3kmコース/筑波サーキット・フルコース



上記のカーバッジは、いずれも日本オートクラブ(NAC)主催による「全日本レーシング・ドライバー選手権シリーズ」のもので、このシリーズ戦は1968年は全部で8戦、1970年は5戦で競われた。(もちろん1969年もあった)
各レースの内容と結果をすべて掲載できれば一番いいのだが、スペースの関係と本来の目的(小物紹介)とから残念ながら割愛させて頂いた。
両年(掲載カーバッジ)の年間チャンピオンのみ記させて頂くと.......
1968年:スポーツカー(S)2/寺西孝利
同S1/武智俊憲
ツーリング(T)2/高橋利昭
同T1/高橋晴邦
1970年:S2/風戸裕
S1/片倉司郎
T2/高橋国光
T1/橋本省吾

J.スチュワート、余裕の勝利!

「1970年JAFグランプリ」
富士スピードウエイ 右まわり6kmコース

デザインはシンプルそのもの。
レース内容は年表をご覧ください。


黒沢マーチ722/BMW、勝利を握る
「1973年日本グランプリ・レース」
富士スピードウエイ 右まわり6kmコース



1973年は、ニッサン・ワークスの黒沢元治選手が、チームを離れ、日本グランプリ、富士GCシリーズ、F2000選手権などに
大活躍した年である。
上記カーバッジは、そのひとつ、’73日本グランプリのものだが、ほとんど見えないスキャンで申し訳ないが、右端には、生沢徹選手+ロータス69を
リーフレットしたものがプリンとされている、きれいなデザインのもの。
’73日本グランプリ自体は、2列めからスタートした黒沢マーチ722/BMWの、ブッち切り(スタート・ツー・フィニッシュ)の勝利であった。
’73日本グランプリ・レース結果
優勝:黒沢元治 マーチ722/BMW
2位:B.ロバートソン ブラバムBT40/BDA
3位:G.ローレンス サーティーズTS15/BDA
4位:田中弘 マーチ732/BMW
5位:M.ホール ブラバムBT40/BDA
6位:永松邦臣 ブラバムBT36/R39Bー2
7位:佐藤光一 ブラバムBT29/FVC
8位:益子治 ブラバムBT30/R39Bー2


*オリジナル年表「総索引」*