白井 景 執筆集
(原文のまま)


1ー1.

mazda speed
「Pole Position」1981創刊号



「Champion 1980 IMSA Series」(GTU−Class)

人の生きざまを見られるようになったら、
モータースポーツが面白くなるぞ。



”Free men are free to risk their lives”......自由な人間は、自分の生
命をも賭ける自由を持っている.......ベルギーの著名なモーター・ジャーナリスト、
ジャック・イクス(Jack Ickx)の言葉である。
 この含蓄のあるフレーズは、モータースポーツに生きる者への讃辞と羨望を
みごとに言い尽くしている。この言葉に、われわれはなぜ惹かれるのだろうか、 
言いかえれば、なぜモータースポーツは人を魅了してやまないのだろうか?
 スピード? 名誉? 競り合い? 心臓をえぐるようなエンジンの咆哮? 凶
暴なマシンを、かくも軽快に操るレーシング・ドライバーの華麗なるテクニック? 
それとも本能?
 1895年に、パりールーアン間で世界初の自動車レースが開催されて以来
85年間、この疑問を呈しながら今日まできている。
 だが、モータースポーツが他のスポーツと同様、記録への挑戦を不滅のテー
マとして、今日までつづけられていることは、紛れもない事実だ。
 たとえ時は21世紀になり、原子力カーやジェットカーの時代になろうとも、モ
ータースポーツがなくなることはない。
 なぜなら、記録への挑戦は、そのまま自己への挑戦と言い直してもいいか
らだ。
 人間が自己の可能性を求めて、果てしない戦いを挑むとき、おのずからそこ
にはドラマが生まれる。人々は、おそらくモータースポーツにドラマを見るに違
いない。しかも極限のドラマを.....。
 では、それは、いったいどんなドラマなのだろうか。
 周知のように、モータースポーツは、スキーがボードとストックを用い、野球が
バットとグローブを道具とするように、クルマをその手段として使う。しかも、モー
タースポーツの手段であるクルマという代物は、バットやボールとは決定的に異
なる。
 なぜなら、バットやボールはそれを扱う人間が、よほどヘマをしない限り、まが
りなりにも試合は成立する。
 これに反し、モータースポーツはマシンの存在がきわめて大きい。
 もちろん、ドライバーの腕前は、成績を左右する決定的な要素のひとつではあ
るが、それと同じくらいの比重で考えなければならないのがマシンの性能だ。
 スキー板やバット、グローブなど一見なんの変哲もないような”スポーツ用品”
でさえ、長い歴史のなかで改良されてきている。
 だが、モータースポーツの用品であるマシンは、すさまじいばかりの発達を遂
げている。
 それは、スキー板やバットなどとは比べものにならないほど激しいものである。
この背景には、クルマが生活必需品であり、クルマの高性能化=生活の能率
化という図式があったからだ。
 考案されたニューメカニズムがレーシングカーに盛り込まれ、市販車にフィー
ドバックされるや、レーシングカーには新機構が採用され、すぐさま市販車に還
元される....。こうした循還を繰り返しつつマシンは高性能化されてきた。しかも
日進月歩、あるいは長足の.....といったような形容詞では、とうてい表現できな
いスピードで。
 これほどのスピードで発達してきたレーシング・マシンを人間が駆る。
 そこには、当然のことながら人間の極限が要求される。
 これこそ現代を最もよく象徴したドラマであろう。演出者はもちろん人間である。
ドライバーは、主人公でもあるが、演出者のひとりだ。マシンも主人公であると
同時にドラマに決定的な要素を与える大道具だ。
 これらが、ない交ぜになり、あらん力を振り絞って、勝つために展開されるの
がレースに他ならない。
 こうして見てくると、観客がレースになにを見るかはおおよそ見当がつく。
 レーシング・ドライバーを称えるにしろ、ド迫力のマシンの走りを堪能するにし
ろ、その背後にある人間模様を、生きざまを見ていることは確実だ。
 レーシング・マシンという現代を象徴する機械を、人間がいかに御するかとい
う、最も人間くさい営みを、人びとはレースに求める。人間が極限でなにを求め、
そして掴むのかを、われわれは求めているのである。
 その意味でIMSAのRXー7は、実に象徴的であると言わねばならない。
 ロータリーという画期的なメカニズムを引っさげて登場したRXー7は、冒頭のF
ーree men....の真理をズバリ具現している。
 メカニズムに、あるいはドライビングにすべてを賭け、ハイポテンシャルのREマ
シンを演出する男達は、一歩も後へ退けないドラマを演じているのだ。
 しかもこのRXー7でル・マン、スパ・フランコルシャン、デイトナの世界最大24時
間レースに挑んだ男がいる。
これこそ、現代を生きる男の大いなるドラマといえよう。
 冒頭の名言を綴ったジャック・イクスはF1ドライバーであり、かつてル・マンを制
したこともあるジャッキー・イクス(Jacky Ickx)の父親である。
 男達が、命とロマンを賭けて戦う”カーファイター”の世界がここにある。
 RXー7が繰り広げるレースの世界をとくと.....。
                  (了)

*残念ながら、雑誌の表紙が見当たらず、もしかしたらタイトルが違っていたかも知れ
ません。その節はご容赦を.......


1-2
mazda speed
「Pole Position」1981創刊号




[The Worldwide 24hours Race」

世界広しといえども、
24時間耐久レースは3つしかない。

#1.不滅の歴史を誇るル・マン24時間
 
24時間という、長くて過酷なイベント。長距離レースの最高峰に位置するル・
マン24時間レースは、第1回大会の1923年以来57年経った今日でも、その
価値や名声は変わらないどころか、ますます”栄光のル・マン”のタイトルは重み
を増している。パリの南西220kmに位置するル・マンの街は、平常はごくありふ
れた田舎町だ。
 しかし24時間レースが行なわれる6月中旬の1週間は、毎年、蜂の巣をつつ
いたような狂想曲へと街は一変する。”ヴァン・キャトル・ホイヤー・ドゥ・マン=ル・
マン24時間耐久レース”のためである。この祭りは、第2次世界大戦中の9年間
(1940〜1948年)と1936年を除いて恒例となっているものである。
 ポプラ並木が林立するル・マンの公道を利用するサルテ・サーキットは1周13
.6kmの右まわりコース。スタートしてすぐにダンロップ・カーブ、つづいてテルトー
ル・ルージュのコーナーを抜けると、どんなハイパフォーマンスなマシンも最高速が
出てしまう、あの絶望的な6kmのユーノデール(ミュルサンヌ・ストレート)の直線に
はいる。
 ユーノデールの直線で最高速を出したマシンは、5−4−3−2速へと急激なシ
フト・ダウンが要求されるミュルサンヌ・コーナーをクリアしなければならない。
 約2kmの直線を走った後はインディアナポリス、アルナージュの各コーナーをま
わり、ポルシェ・カーブ、メゾンブランシュの複合コーナーを抜け、さらにフォード・シ
ケインを経て、やっとスタート地点に戻る。
 ル・マンを経験したあるドライバーは、この長いユーノディール・ストレートの感想
をこう語る。
「テルトール・ルージュを3速で抜けた後、ユーノディールの直線にはいる。この時
点では、そびえ立つポプラ並木が美しくはっきりと視認できる。だが、4速、5速へ
とシフトアップしていくと共に、木のシルエットは流れとなり、あれほど広い道路は
極端に狭く見え、並木が両サイドに壁のように迫ってくる」
 それほど、もの凄い迫力をユーノディールの直線は持っているの例えだ。
 スタート時刻は午後4時ジャスト。
 ペースカーによるローリング・スタートで、感動のドラマの幕は切って落とされる。
 やがて訪れる長い漆黒の闇。一条の光芒を頼りに、ドライバーはどこまでも走ら
なければならない。
 時に襲ってくる激しい雨、虫の群れ、小石など......マシンを操る以外の外敵との戦
い。闇が明けてくると同時に来襲する睡魔。
 だが、ゴールのチェッカーまでは、まだ長く厳しい。照りつける日射しに、ドライバ
ーはサンバイザーを降ろし走り続ける。
 午後4時ジャスト。興奮のルツボと化した何十万人の観衆の前で競技長は、チェ
ッカードフラッグを打ち振る。
 そこに飛び込む競技者、精も根も使い果たしての感動の一瞬である。観客は、わ
れ先にスタンドの柵を乗り越え、優勝車に群がり、人と車の栄光を讃えるのだ。

#2.ル・マンを制する者は世界を制す!
 ル・マン24時間は、ツーリングカーから始まりスポーツカー、プロトタイプカーでその
名誉が争われてきた。
「ル・マンを制する者は世界を制す」とまで、ル・マンは著名となり、優勝車はその後
の販売に大きな影響を与えると言われるほどで、必然的にメーカー間の強烈な戦い
の場となってきている。
 これまでもル・マン24時間は、世界に名を馳せた強豪チーム/メーカー間の争い
で、強いてはチーム/メーカー間から国の威信を賭けた争いへの道を歩んできてい
る。
 スポーツカー王国イギリスの権威、フランスの栄光、強き国ドイツの威信、血たぎ
るイタリア魂......。かつては、24時間走り切れる優秀な車技術を誇った各国は、や
がて自分の国のドライバーで優勝をと、世界制覇の威信を賭け、夢をふくらませて
いったのである。


参考/1967年ル・マン24時間を制した
フォード・マーク4。

出典:「AUTO SPORT YEAR’68」(photo:Joe Honda)より



 こんな中に、ヨーロッパ勢に対し、戦いを真っ向から挑んだ国がある。アメリカであ
る。
 自社の販売シェアを世界に向けたフォードが、販売戦略の一環としてル・マンに眼
を向け、完全制覇を目論んだのだ。俗に言うフォード艦隊の来襲で、フォードは、イギ
リスのローラ(Lola Cars Ltd)に眼をつけ、マシン作りの契約を結んだのだ。
 1962年のことで、フォードとしては40年ぶりのレース復帰声明でもあった。
1964年に初挑戦、失敗。
翌65年は6台出走し、第1日の夜半までに全車姿を消した。
ローラとは別に、フォードはシェルビー・アメリカンにもマシン製作を依頼している。
1966年には、フォードは実に8台の7リッター・マシンをル・マンに送り込み、必勝態勢で臨んだ。
そしてゴールには3台編隊飛行という演出をし、優勝と共に2,3位の座をも勝ち得ているのだ。
翌67年にもフォードは勝った。
この時は、ル・マン史上初の、アメリカ人ドライバーによるアメリカ・マシンの勝利というおまけまで付き、
アメリカの国威を大いに発揚する出来事でもあった。
フォードは68年、69年と共に勝ち、4年連続してル・マン制覇に成功しているのである。
しかし、アンチ・アメリカを唱える国は多く、この年からプロトタイプカーの排気量を3リッターに、
スポーツカーを5リッターに抑えるレギュレーションがまかり通り、
アメリカ勢の野望は、この時点で終わりを告げた。
そして、その後はポルシェ、マトラが覇権を握る。
国威発揚の考えはフランス勢に最も強く、マトラ、ルノーはフランス製のマシンにフランス人を乗せ、
必勝を期して臨んだものだ。
こういうル・マンの土壌の中でRX−7も同24時間レースに挑戦を開始した。
やがて、勝利の雄叫びを聞ける日も、そう遠いことではないだろう。
最後に、歴代の、ル・マン24時間・勝車を付してこの項を終わるが、
参考までに第1回大会の記録を記しておく。
第1回大会:1923年。
参加35台、完走30台。
優勝は3リッターのシェナール・ウオーカー(フランス)で、平均時速は92km/hであった。
***
1924年:ベントレー
1025〜26年:ラレーヌ・デートリッヒ
1927〜30年:ベントレー
1931〜34年:アルファロメオ
1935年:ラゴンダ
1937年:ブガッティ
1938年:デラエ
1939年:ブガッティ
1949年:フェラーリ
1950年:タルボ
1951年:ジャガー
1952年:メルセデス・ベンツ
1953年:ジャガー
1954年:フェラーリ
1955〜57年:ジャガー
1958年:フェラーリ
1959年:アストン・マーチン
1960〜65年:フェラーリ
1966〜69年:フォード
1970〜71年:ポルシェ
1972〜74年:マトラ
1975年:ガルフ(ポルシェ)
1976〜77年:ポルシェ
1978年:ルノー
1979年:ポルシェ
1980年:ロンドー
***


#2.ハイバンクが特徴のデイトナ24時間
24時間レースといえば、忘れてならないのがデイトナ24時間。
ル・マンと共に、長距離レースの伝統イベントである。
その舞台であるデイトナ・スピードウエイは、フロリダ州のジャクソンビルから
90マイル(144km)東南にくだったデイトナビーチにある。



デイトナビーチは、海水浴場としてあまりにも有名で、美しい景色、
真っ青な海と空にあこがれて、世界各国から観光客が集まってくる。
外周4.02kmのコースは、おむすび形をしており、
両端は31度のカントを持つハイバンクである。
このコースは、主としてストックカ・レースに用いられる。
RX−7が出場するIMSAレースは、外周+インフィールドの
テクニカル・コースを併用した1周6.18kmが採用されている。
したがってIMSAのレースは、ハイスピード+テクニカルの両面を
併せ持った難しいコース設定だ。
デイトナ24時間は、デイトナ・スピードウイークの幕開けを切って落とす
インターナショナル・レースで、このスピードウイークの中には、
前述のストックカー・イベント、デイトナ500マイルも含まれる。

これがIMSAシリーズだ!
IMSAとは、アメリカのスポーツカー・レースの中でも、最も高い人気と
実力を誇るGTレース・シリーズ。
International Motor Sports Association(国際モータースポーツ協会)の頭文字である。
デイトナ24時間、セブリング12時間などのイベントもシリーズに含まれており、
全米のサーキットを転戦する形で開催される。
1980年は、17イベントが行なわれた。
同年のル・マンにも出場した俳優のポール・ニューマンはこのレースの常連であり、
「フレンチ・コネクション」で壮絶なカーチェイスを披露したジーン・ハックマンが、
RX−7で出場したい旨を、現地のマツダ・ディーラーに申し出たという興味深い話も伝わっている。
このIMSAシリーズは、インディ・マシンのUSAC、ストックカーのNASCARに対し、
GTカーによるレースとして1969年に設立され、
FIAのグループ4,特殊グランド・ツーリングカーを基本とし、
これに独自の安全規定を盛り込んでスタートした。
その後、主力クラスはグループ4からポルシェ935を筆頭とするグループ5へ移行し、
このクラスとGTUクラスを中心とした男達の熱い戦いが繰り広げられている。
(中略)
1981年は、第1戦のデイトナ24時間こそポルシェにさらわれたが、
第2戦のセブリング12時間からは4連勝するなど、
マツダ・チームは、GTUクラスで圧倒的な強さを見せている。


高低差の激しい山岳コース
スパ・フランコルシャン24時間
いっぽう、グループ1仕様の耐久レースとして見応えがあるのは、
なんといってもスパ・フランコルシャン24時間である。
若干のチューンアップは許されるが、ほぼ量産車ベースのマシンが激闘を展開する。
レース結果が、ダイレクトにオリジナルカーの改良にフィードバックされるため、
「過酷なテストコース」とも言える。
世界の主だったメーカーが、自車の信頼性を賭けて勝敗を競うというのも、このためである。



山岳地にあるスパ・フランコルシャン・サーキットは、
牛や馬が放牧されている田園地帯に作られている。
かつてのF1ドライバー、ジョン・クーパーに
「スパは世界で一番美しいグランプリ・コース」といわしめた。
いわばツーリングカー・レースにも打って付けのコースなのである。
だが、その美しいスパのコースでも24時間レースは過酷だ。
しかも山岳コースにありがちな急変しやすい天候。
コースのこちら側が晴れていると思うと、向こう側は雨といった具合で、
タイヤ選定はメカニック泣かせである。
そのうえ霧にも悩まされる。
どのような走りにも耐え抜くマシンと、マシンの状態にすばやく反応する
ドライバーによって、初めて勝利できる1周6.947kmの高低差の激しいコースである。
そんな地形を持つスパ・フランコルシャン・サーキットは、
ベルギーの首都ブラッセルの東、リエージュの東南50kmの地点にある。
マツダは、このスパ24時間レースに1969年と70年の両年、
ファミリア・ロータリー・クーペで出場、好成績を残し、
RX−7でも上位入賞をするゲンのいいサーキットである。
(了)

2002/6/18 写真2点削除