名門レーシング・チームの系譜 第3回



ウイリアムズ
Williams Racing Team

〜名門チームへの葛藤



Williams FW13 Renault 
1989 German Grand Prix (Hockenheim) Official Program

Constructors Champion:1980.81.86.87.92〜94.96.97


現在、「BMW Williams F1」として、フェラーリ、マクラーレン・ベンツと
三つ巴の戦いを繰り広げているおなじみのウイリアムズ・チーム。
だが、”名門”と呼ばれるまでには、チーム・オーナー、
フランク・ウイリアムズの苦悩と、幾多の困難を克服してきた苦闘の物語があったのだ。
その辺を中心として話を始める。


白井景
1990年,F1専門誌に掲載・加筆再録


Frank Williams
photo:
BMW Williams F1 Team



ピアス・カレッジとF2からスタート
1967年(昭和42年)、フランク・ウイリアムズ(レーシングカー)リミッテッドは設立された。
かつてレーシング・ドライバーでもあったフランク・ウイリアムズが、
レーシングカー用品を扱うビジネスのかたわら、
グランプリのエントラント、コンストラクターになることを目的として設立された会社である。
それはまた、グランプリに野望を抱く男の第一歩が記されたことでもあった。
(Francis Owen Garbett Williams:born/1942.4.16/G.B.)
フランク・ウイリアムズは、最初の相棒にピアス・カレッジを選んだ。
ピアス・レイモンド・カレッジ(Piers Raymond Courage)は、
ビール会社として有名なイギリスのジョン・カレッジ醸造会社社長の御曹司で、
名門イートン校を卒業したサラブレッド。
レーシングカーの虜になったカレッジに、同じレース仲間でもあったウイリアムズが
ブラバムBT23C・F2マシンを用意したのである。
カレッジ/ブラバムとウイリアムズのコンビは、この年1967年のF2レースに上位を走り続け、
ついに最終戦アルゼンチンで勝利をものにした。
翌1968年、このふたりは、
ブラバムBT24/コスワース2.5リッター・マシンをタスマン・シリーズに走らせ、
1位と4位を1回ずつ取り、トータル3位の好成績を残した。
1969年にはブラバムBT26でF1にも挑戦し、
2位を2度(モナコ、アメリカ)手中に納め、ドライバーズ・チャンピオンシップ16点で8位となった。
そして1970年、カレッジとウイリアムズは、
フォード資本が注ぎ込まれたデ・トマソのF1、タイプ505で本格的にグランプリ戦線に参入し、
ノンチャンピオンシップのレース(シルバーストーン)ながら、
ジャッキー・スチュワート、クリス・エモンに次いで3位にはいった。
だが、運命のオランダ・グランプリが待っていた。
23周め、首位を走っていたピアス・カレッジとデ・トマソ505は、
イースト・トンネル前の右コーナーで大きくスピン、ガードレールを突き破って橋の欄干に激突、
マシンは火を放ち、カレッジは不運にも即死してしまったのである。
フランク・ウイリアムズは、カレッジの事故に当然ながら傷心した。
が、チームは1971年と72年の両年、
マーチ711と712でアンリ・ペスカロロ(Henri Pescarolo、フランス)と共にグランプリ・サーカスを転戦した。
この間、自チームのマシン、ポリトーイズFX3を開発、イギリス・グランプリに参戦もしているのだ。
1973年、ポリトーイズFX3の改良版、FW01がホーデン・ギャンリー(Howden Ganley、ニュージーランド)と
他2名のドライバーのステアリングでF1戦線に登場した。
スポンサーにはイタリアの高級車メーカー、イソとタバコ会社のマルボロがついた。
FX3は、レン・ベイリーの設計だったが、FW01(FX3B/1R)はジョン・クラークが担当した。
FW01は、フェラーリ312Bに似た大きなサイドポンツーンが特徴。
FW01のシーズン中の収穫は、6位入賞が2度(オランダ=ガイス・ファン・レンネップ、オランダ=とカナダ)で、その結果、
ウイリアムズ(イソ)・チームのコンストラクターズ・チャンピオンシップ順位は10位であった。
ウイリアムズ・チームは、74年はこれを改良したFW02で、
翌75年はFW04で挑戦を続けた。
この結果、74年のチャンピオンシップ・ランキングやはり10位、75年は9位
(ジャック・ラフィー:フランスの手で2位=ドイツ・グランプリ=に一度入賞)であった。


デザイナーのパトリック・ヘッド(左)と
フランク・ウイリアムズ(右)。ドライ
ーはアラン・ジョーンズ。1981年。

photo:CBSソニー出版
「F1マシン デザイン&テクノロジー」



1980年、FW07で念願のチャンピオンに
1976年、ウイリアムズ・チームは、ヘスケス308の改良型をFW05として走らせている。
スポンサーはカナダの大富豪、ウオルター・ウルフがついた。
また1977年は、マーチ761が主役となった。
が、いずれのシーズンも、見るべき戦果はなく終わっている。
いっぽうこれらとは別の動きとして75年暮れ、ウイリアムズ・チームは
パトリック・ヘッドを採用、オリジナル・マシンの開発を密かに進めていた。
そして出来上がったのがFW06で、このマシンは78年シーズンに間に合った。
スポンサーにはサウジ航空がつき、チーム態勢は整った。
ドライバーはイギリス人のアラン・ジョーンズ(Alan Jones、オーストラリア)。
軽くコンパクトにまとめられたFW06はドライブしやすく、
南アフリカで4位、フランスで5位、東アメリカで2位の計11ポイントを挙げ、
ドライバーズ・チャンピオンシップで11位、コンストラクターズ・チャンピオンシップで9位にランクされた


ウイリアムズFW06.1978年。

翌1979年、ウイリアムズ・チームはウイングカーのFW07/DFVをグランプリに投入した。
FW07は、アラン・ジョーンズとクレイ・レガゾーニのツーカー態勢をとった。
そして第10戦/ドイツ・グランプリ(7月29日)でアラン・ジョーンズが、
ウイリアムズに初の1勝をもたらし、つづくオーストリア、オランダ、カナダと勝ち、
通算43ポイント(有効得点40点)を挙げ、ドライバーズ・チャンピオンシップ3位。
またクレイ・レガゾーニは32点(同29点)で5位となった。
コンストラクターズ・ポイントは75点で、フェラーリに次いで2位となった。
1980年シーズンもウイリアムズ・チームはFW07Bで戦い、
ジョーンズは5勝(アルゼンチン、フランス、イギリス、カナダ、東アメリカ)し、
通算71点(同67点)で堂々とドライバーズ・チャンピオンとなった。
またコンストラクターズ部門でも120点を挙げ、チャンピオンになる輝かしい足跡を残している。
1973年にFW01をグランプリに投入してから
わずか8年でF1の頂点(ダブル・タイトル)に立つ、すばらしい快挙であった。
FW07,FW07Bは、パトリック・ヘッドを中心にニール・オートレイ、
フランク・ダーニーなどが開発スタッフに加わり作られている。
全体的にはロータス79に似たレイアウトで、
さらに、これをコンパクト、リファインしたものとすれば考えやすいだろう。
シャシーは、アルミ・ハニカム材を使っており、
サイドパネルとフロアパネルは一体構造となっている。
サスペンションは前後共インボードタイプで、
フロントはアッパー/ロッキングアーム、ロワ/A型アーム、
リヤはアッパー/ロッキングアームとIアームの組み合わせ、ロワ/A型アーム。
サイドポッドは長く伸ばされ、ダウンフォースが得やすくなっている。
スカートは、カーボンファイバーとセラミックの組み合わせ。
つまり本体がカーボン、路面と接触する部分がセラミックというわけである。
パワーユニットは、コスワースDFVである。


1980年王者のアラン・ジョーンズとFW07(写真上、下)。
上:Marlboro Grand Prix Guide 1950〜89
下:「F1マシン デザイン&テクノロジー」


ダブル・タイヤの6輪カーもトライ
1981年のウイリアムズ・チームは、FW07Cでグランプリに臨み、
カルロス・ロイテマンが49点で2位、アラン・ジョーンズが46点で3位、
コンストラクターズ部門は95点で、2年連続チャンピオンをものにしている。
もし、ロイテマンとジョーンズの確執がなければ、ドライバーズ・チャンピオンの座は、
ネルソン・ピケ(ブラバム)には渡らなかったと思われるのだが.....。
それはともかく、FW07Cは風洞を使っての空力性能の改善と共にシャシー、
サスペンション、ブレーキなど、かなりの改良が行なわれている。
また、モノコック・フレームも強度アップが図られている。
スポンサーにはサウジ航空、TAG(テクニック・アバン・ギャルド)、レイランド・モーターなどがつき、
これらスポンサーの獲得は、フランク・ウイリアムズの力量に負うところが大きかった。
余談だが、チーム・ウイリアムズでは、
いっぽうで6輪カーを開発しており、
81年末にはイギリス・ドニントンのコースでテストを終えていたのである。
6輪車はティレルの前2輪とは違い、後4輪のレイアウトで、
これはリヤ・タイヤの幅を狭くすることで空気の流れをスムーズにすることが出来、
かつトラクションを高められることにあった。
テストしたアラン・ジョーンズによれば、良好の感触が得られた、
ということであったが、残念ながら本番には登場しなかった。
1982年にはケイヨ・ケケ・ロズベルグ(愛称ケケ)がFW08をドライブ、
わずか1勝(スイス)しか挙げられなかったが、それでも得点(44点)を稼ぎ、
ドライバーズ・チャンピオンとなった。
コンストラクターズ部門は58点で4位に終わった。
FW08は、基本的にはFW07だが、さらに細かい改良が施されていた。


ロズベルグがチャンピオンをもぎ取った82年のFW08。

さらに83年は、ターボ勢の中にあってウイリアムズ・チームは、
ノン・ターボのFW08/DFVで戦った。
しかし、最終戦の南アフリカ・グランプリでは、ウイリアムズ・チームは、
というよりもフランク・ウイリアムズは、したたかさを持ってホンダV6ターボを手に入れ、
これをFW09に載せ走らせ、きたるべきターボ全盛時代に備えたのである。
(ロズベルグが5位)
1984年仕様のFW09/ホンダ・マシンは、DFVエンジンを搭載していた
FW08と基本的に同じモノコック・シャシーであったが、
材質は先進的なカーボン・ケブラーの中にあって、未だアルミハニカムを使用したものであった。
ホンダ・ターボを積んだFW09は、ロズベルグの手でアメリカに優勝したのを含めても
ポイント20.5点で、ドライバーズ選手権8位、コンストラクターズ部門25.5点で6位に終わっている。

86,87年と連続王座に!
翌1985年は、ハイパワーのターボ・エンジンとマッチングしたシャシーを持つ
FW10で、ウイリアムズ・チームは戦った。
モノコック・シャシーは、それまでのアルミハニカムからカーボン・ファイバーとなっていた。
ケケ・ロズベルグとFW10/ターボ・ホンダV6は、
東アメリカ、南アフリカ、オーストラリアを取り、
トータル40点で3位、コンストラクターズ・ポイント71点で3位となった。
翌86年、ウイリアムズ・チームのドライバーは、
ロズベルグからナイジェル・マンセルとネルソン・ピケに替わった。
ふたりは、よりコンパクトで完成されたFW11/ホンダを駆り合計9勝、
うちマンセルが70点(有効得点)で、
プロストに次いでドライバーズ選手権部門2位、ピケは69点で3位となり、
いっぽうコンストラクターズ部門は141点でダントツの1位となった。
1987年は、まさにFW11シャシーとホンダ・パワーの真価が発揮された年であった。
これを操るドライバーはやはりマンセルとピケで、ふたりで9勝を挙げ、
ピケがトータル73ポイント(同)でドライバーズ・チャンピオン、マンセルが61点で2位となり、
コンストラクターズ部門も137点で2年連続の快挙(チャンピオン)となった。
しかも、フェラーリとマクラーレン勢に後塵を拝しての勝利であった。

”ウイリアムズ時代”到来
だが強烈なパワーを生んだホンダとの契約は終わった。
FWマシンは、88年シーズンは、ひ弱なジャッドV8エンジンを積まざるを得なかった。
このためウイリアムズ・チームは、
FW12でコンストラクターズ部門わずか20点で7位に終わっている。
そして1989年、したたかなフランク・ウイリアムズと同チームは、
ルノー・ワークス・エンジン(RS1・V10)を手に入れ、FW12/13マシンと
ティエリー・ブーツェン、リカルド・パトレーゼのコンビでグランプリを戦い、
うちブーツェンがカナダとオーストラリアで2勝し37点で5位、
パトレーゼがコンスタントに入賞し、40点で3位となった。
コンストラクターズ部門は77点・2位となった。
逆襲の序曲である。
1990年、FW13シャシーにニュー・エンジン・ルノーRS2/V10を搭載し
同じドライバーの顔ぶれで転戦したが、第3戦/サンマリノ(パトレーゼ)、
第10戦/ハンガリー(ブーツェン)の2戦に優勝したに過ぎなかった
(コンストラークターズ:57点/4位、ブーツエン34点・6位、パトレーゼ23点・7位)。
ブーツェンの替わりにマンセルがラインアップに戻った1991年(FW14)は、
マンセルが72点で2位、パトレーゼが53点で3位(1位:セナ)。
コンストラクターズ・ポイントは125点でマクラーレンに次いで2位。
そして1992年(FW14B、マンセル)、翌93年(FW15C、アラン・プロスト)と、
ダブル・チャンピオンの栄誉に浴した。

 
左:1993年/FW15C、右:1997年/FW19
photo:Williams F1 Racing

さらに1996年にはFW18でコンストラクターズ・チャンピオンとなり、
97年にはジャック・ビルニューブ(FW19)の手でドライバーズ部門とコンストラクターズ部門の
ダブル・チャンピオンとなっている。
まさに”ウイリアムズ時代”到来であった。
2000年、新世紀と共にウイリアムズ・チームは新しい道を歩み始めた。
BMWとの新しいコンビネーションで、である。
チーム名は「BMW Williams F1Team」。
そして現在に至っているのだ。
**
話は1986年に遡る。
フランク・ウイリアムズは、フランス・ポールリカールのテストを終えての帰路、
自動車事故を起こし、結果、下半身不随の身となってしまったのだ。
サーキットのピットで、クルマ椅子に乗って指示を出しているフランク・ウイリアムズの姿は、
テレビを等して諸子もよくご存知だろう。
栄光の裏に、自身の事故もさることながら、
古くはピアス・カレッジ、そして1994年のアイルトン・セナの事故に遭遇、
彼にとって身内ともいえる信頼すべきドライバーを失っているのだ。
傷心のどん底に落ちながらも、彼はそこからはい上がり、
不屈の精神でレースの環境の中に、今でも身を置いている。
「サブタイトル」にウイリアムズ・チームの”葛藤”としたのもそのためである。
もちろん、チームであるからには、クルーの存在も大きかったのも忘れてはならない。
特に、1975年からのパトリック・ヘッドとの2人3脚は、
フランク・ウイリアムズのチーム・マネージングとパトリック・ヘッドの技術/現場責任者
(テクニカル・ディレクター)の呼吸が合ってはじめての栄光、と誰もが認めるのだから....。

(完)


2001年3月16日、マレーシアでの
「BMW ウィリアムズ F1 チーム」
記念撮影。

photo:BMW Williams F1 Team


【名門レーシング・チームの系譜】
第1回:フェラーリ/真紅のグランプリ神話
第2回:マクラーレン/華麗なるグランプリ・ロード
特別編:チーム・ロータス/その光と影