Honda F1.Six Consecutive
Formula One Construcctors’ Championships
&1991 Drivers’ Champion
Ayrtone Senna.
Memorial Special Badge





3回に分けてお贈りする「ホンダF1ものがたり」。
その最終回は、ホンダF1の原点である1.5リッター時代。
今でこそ、F1という言葉がなじみある響きを持って迎えられるが、
1960年代初頭は、まだグランプリという言葉のほうが、
それなりの重みとスペシャルさを感じさせたものだった。
それから約40年。
ホンダ・パワーは、日本のというより、ハイパワーの代名詞として、
世界各国のF1チームから、ジョイントのなりてが殺到するまでに至っている。
最終回は、F1デビューから初めての優勝を勝ち取るまでを描く。
例によって、かなりの長編になることを最初からお断りしておく。
最後までお付き合い願うことを念じる。
2002.1.1

1991年F1専門誌に掲載・加筆再録
白井景

協力:本田技研工業


1.5リッター最後の年の最後の戦い
メキシコにぶっち切りの勝利!

ホンダF1の原点
RA270,271,272の熱戦譜



2輪の王者、ホンダが次のターゲットに的を絞ったのは、
大胆にも「F1世界選手権」だった。
高回転・高出力を武器に、
横置きV型12気筒エンジンを搭載したRAマシンは、
1964年8月2日、
世界中が注目するニュルブルクリンク・サーキットで、
その初の走りを見せた。



1964年、デビュー戦のドイツ・グランプリ。
ニュルブルグリンクのグランドスタンド前を疾走する
ロニー・バックナムのホンダRA271。


【ホンダ・ミュージック】
1964年(昭和39年)8月2日は、わが国初のフォーミュラ・ワン、
ホンダRA271が実戦(ドイツ・グランプリ)にデビューした記念すべき日となった。
ホンダRA271は、その半月前にオランダのザンドボールトで、
報道陣にその姿を披露している。
ナショナル・カラーの白地に日の丸を配したボディは、
心臓部の横置きのレイアウトと共に、見守る関係者をアッと言わせたものである。
そして、その走りを見た者は再度驚いた。
伝説的に語り継がられる、
あの”ホンダ・ミュージック”の高回転サウンドがそこにあったからである。
話は3年前にさかのぼる。
ホンダは、1961年暮れに、ホンダの2輪ライダーであったボブ・マッキンタイア所有の
クライマックス2.5リッター・直4エンジン搭載のクーパーF1を購入している。
F1計画のまったく存在しない時代のことである。
当時ホンダは、2輪レース界では押しも押されぬ存在で、
各クラスに王者の貫禄さえ見せていた。
ホンダは、この頃4輪車開発の緒についたばかりであった。
(1962年6月、ホンダ初の4輪車/AK360と小型4輪スポーツカーAS500を発売)
クーパー購入も、エンジン開発リサーチの一環であった。
その後、一基のホンダ4輪レーシング・エンジンが出来上がった。
(図面を引いたのは63年始め頃で、出来上がったのは同年6月と言われる)
2輪レースでも、その冴えを見せた高回転・高出力のものであった。
このエンジンは、ベンチテストの後、
クーパーに載せる試みがなされたが、これはうまくいかなかった。
そこで開発陣は、マルチチューブラーのスペースフレームを新開発し、これに搭載した。
うまく載らなかったのは当然である。
このエンジンこそ、1.5リッター60度V型12気筒横置き仕様だったのである。
このエンジンの構想は、故本田宗一郎氏(当時社長、91年時点:最高顧問)だったといわれ、
重心Z軸に重量物が近づく、理想の一形態といえた。
(ヨー方向のモーメントイナーシャ=慣性モーメント=が小さくなり、
したがってハンドリングのレスポンスが良好となる)
1964年3月、鈴鹿サーキットで密かに金色まぶしいF1マシンが疾走した。
(同年1月、2月にも同コースを試走してはいる)
ステアリングは、オーストラリア出身で
ブラバム・モーターレーシング・ディベロップメント主宰者のジャック・ブラバムが握っていた。


試走する金色のプロトタイプ・ホンダF1。

実は、ホンダはそれまでにロータス・チームとコンタクトを取っており、
シャシーもロータスに決まりかけていた。
しかし64年2月に、ロータスから「ジャガーとの関係から難しくなった」との連絡があり、
ホンダは、この時から自製シャシーの開発にも踏み切ったのである。
このような経緯を踏みながらRA271は、1964年6月の報道発表を迎えたのである。
世界に挑戦する日本のホンダF1のボディカラーは、本来は金色になるはずであった。
しかし金色のナショナルカラーは、南アフリカ共和国に既に決まっていた。
そこで、文字どおり”白地に赤く...”の日の丸カラーと決まったのである。


上:本田宗一郎氏と金色のプロトタイプ・ホンダF1。
下:日の丸カラーが施された実戦マシン、RA271.



【横置きV12エンジンの中味】
ホンダRA271の最大特徴は、横置きエンジンにあった。
水冷60度V型12気筒・48バルブ・エンジンのパワーは、
クランクシャフト中央に設けられたパワーテイクアウト・ギヤによって取り出し、
ドライブシャフトによってエンジン右側の、多板式クラッチに伝える機構を持つ。
そして、ホンダ製の6段ミッションにパワーをつなげるのだ。
エンジン重量は、自製のギヤボックスを含めて209kg。
クランクシャフト支持およびコンロッド大端部に、
丈夫なニードルローラー・ベアリングを使用し、クランクシャフトは組立式。
クランクシャフト(分割組立式)中央からパワーを取り出す方式は、
モーターサイクルでもホンダお手の物の技術のひとつである。
カムシャフト駆動はギヤ式。
燃料供給装置は、京浜気化器製のツインチョーク・キャブレターだ。
こうして出力は、220ps/1万1500rpmを発生させている。
圧縮比は10.5。
ちなみに、コベントリー・クライマックスV8が180〜190ps/9000rpm、
フェラーリV8が205ps/1万500rpmであった。
ことシャシー/フレームに関しては、金色(RA270)のマシンとは、ガラリと変わっていた。
というのは、RA271は、仮に作られたマルチチューブラーのスペースフレームではなく、
ジュラルミンシートをリベット止めにした(セミ)モノコックへと大きく変身していたからである。
コクピット前方は閉断面を採用し、剛性の高い構造となっている。
サスペンションは、フロントがロッキングアーム式インボード・スプリング、
リヤがアッパー逆Aアーム(アップライトピボットとインボード・コイル/ダンパーユニットの下部が
ロッドでつながれ、このロッドでスプリングが圧縮する仕組み=プルロッドによるインボード・タイプ=)。
ホイールベース2300mm、トレッド前1300mm、後1350mm.
金色マシンのエキゾーストパイプは、
ザンドボールトでは3本づつまとめられた集合タイプとなっていた。
エンジンを横置きにした場合のウイークポイントは、ボディが広くなることにある。
開発陣は、東京大学航空科での風洞実験を繰り返し、空力に対処、
最終仕様のボディシェルを得た。
サスのインボード比もこの結果(前後インボードにすると、
アウトボードに比べ10%の空気の空気抵抗の減少が得られたため)といえた。
1964年2月に、社内で正式に発足したグランプリ・オペレーションは、こうして動き出した。
当初の目標は、5月10日のモナコ・グランプリであった。
が、それも遅れ、7月11日にターゲットを絞ったイギリスもキャンセルされた。
そして本番は、8月2日の第6戦ドイツ・グランプリとなって、
いよいよ記念すべき日を迎えたのである。
ドライバーは、アメリカ人のルーキー、ロニー・バックナム(Ronnie Bucknum)。
候補は、1961年のF1ワールド・チャンピオンのフィル・ヒル初め、
ジム・レッドマン、マイク・ヘイルウッドなど、それこそ大勢いた。
が、最終的にホンダは、
自己のマシンと共にルーキーを選んだ(アメリカ・ホンダの推薦)のである。
ドイツ・グランプリの最大の焦点は、
東洋の国から挑戦したホンダRA271の存在であった。
2輪レースを制した、ホンダが作った最新鋭F1である。
その機構にも眼を見張らさせられた。
大げさに言えば、世界中の関係者の眼が、
この日のRA271に向けられたのである。


ニュルブルクリンク・サーキットに持ち込まれたRA271と
それを点検する中村良夫監督。横置き12気筒エンジンが
注目の的となった。



リッチー・ギンサーと契約
ホンダRA271とロニー・バックナムは、
公式練習を含めて5日間も1周22.81kmのニュルブルグリンク・サーキットを走った。
バックナムは、スポーツカーではかなりの腕を持っているといえるが
(1964年5月3日・第2回日本グランプリ・レース/GT1クラス優勝:ホンダS600)、
いかんせんF1は初のステアリング。
マシンを慣らすと共に腕も鍛え上げなくてはならない。
公式予選は、不運にもピストンを焼き付かせてタイムを出せず、
テールエンドのスタートとなってしまった。


コースインするRA271.

8月2日の決勝日。気温は19度Cと絶好の日和。
ニュルブルグリンク・サーキットには、約30万もの大観衆が押し寄せた。
注目のホンダRA271は、バックナムがマイペースで走り続け、
10周までに11位まで上がった。
全15周レースのうちの12周めには9位まで進出した。
が、スタート地点から14km過ぎたカルッセル・コーナー手前の、
のぼり途中のジャンプに失敗、コースアウトして左側の土手に激突、
クラッシュしたまま10m以上走り停止した。
マシンは大破(原因はナックルアームの疲労破損)したが、
ドライバーは無事であった。
クラッシュしたとはいえ、RA271のデビュー戦は大きな可能性を残して終えた。
ドイツ・グランプリの優勝者は、のちに3リッターのホンダ車に乗ることになる
フェラーリのジョン・サーティーズであった。
1ヶ月後のイタリア・グランプリには、ホンダ・チームは、
キャブレターの替わりにベーン(ポンプ)・タイプの
ホンダ式ポートタイプ・インジェクション(燃料噴射装置)を装備して出場した。
その他、ブレーキ用エアダクトを付ける改良も行なっている。
高速コースに、高回転・高出力のホンダ・エンジンはマッチングした。
バックナムは、公式予選で10番手をキープし、
決勝でもセカンド・グループのトップ(5番手)を走った。
が、その直後、ブレーキ・トラブルでピットにはいり、そのままリタイアした。
1964年の最終戦はアメリカ・グランプリ。
オーバーヒート対策を施したノーズカウルのマシンで出場したが、
公式予選でスピン、そのノーズを傷め、旧型のまま決勝レースを走ったが、
中盤でオーバーヒートを起こし戦線から離脱した。
こうしてデビューイヤーを終えたホンダ・チームは、翌年の本格挑戦に向け準備にはいった。
1965年のドライバーとして、アメリカ・グランプリ終了数日後に、
BRMチームのリッチー・ギンサー(Richie Ginther、アメリカ)と正式契約した。
ギンサーは、マシンの開発ドライバーとしても、
その能力は高く買われていた。


 ”陽気なアメリカン”
 リッチー・ギンサーのプロフィール


 1930年8月5日、リッチー・ギンサー(Richie Ginther)は、カリフォルニア州ロサンゼルス・ハリウッドで、3人兄弟の末っ子として生まれた。
 1946年頃、彼は兄の友人である1961年世界チャンピオンのフィル・ヒルからドライビング・テクニックを受けられるラッキーさに恵まれた。
 そしてギンサーは高校を卒業後、会社にはいったが、その1年半後にフィル・ヒルのメカニックとなり、レースの世界にはいった。
 21歳の時、2年間の兵役に着き、終了と共にフィル・ヒルの元に戻り、本格的にレースに打ち込んだ。
 1956年、フィル・ヒルと共にメキシカン・パン・アメリカン・レースにフェラーリで出場した。
 その後、アメリカ国内のレースに数多く出場し、57年にはフェラーリでル・マン24時間レースをも走っている。
 1960年、フェラーリ・ファクトリーのメンバーとしてアルゼンチン1000kmに出場、2位となった。
 この年、モナコ・グランプリでニュー・フェラーリF1に乗ることが出来、しかも6位に入賞した。
 また、この年9月のイタリア・グランプリでは、2位にはいる快挙を示している。
 翌61年は、フェラーリのテスト・ドライバーも兼ねF1グランプリに常時出場、15ポイントを獲得しランキング5位となった。
 62年から64年の3年間、彼はBRM(ブリティッシュ・レーシング・モーター)と契約。
 62年・8位、63年・2位、64年・4位の好成績をF1で残した。
 そして65年はホンダと契約、メキシコで優勝。
 66年、新3リッター・レギュレーションのイタリアでホンダRA300を操り、不運にもクラッシュ・負傷。
 が、カムバックして67年、同じアメリカ人のダン・ガーニーが主宰するイーグル・チームにはいった。
 そして、このイーグル・チームを最後に、ギンサーは事実上引退した。
 1969年には、CAN−AMシリーズにポルシェ・アウディ・チームのマネージャーとして参加、ポルシェ917PAをランキング4位に導いている。
*写真左:R.バックナム、右:R。ギンサー、中央:本田宗一郎氏。



ベルギーでRA272が初ポイント、ゲット!
1965年シーズンにホンダ・チームは、
ギンサー、バックナムのツーカー・エントリーで臨むことになった。
マシン面でも、フロント・サスはダブルウイッシュボーンとなり、
リヤのダンパーはアウトボードに変更された。
シャシーも楕円形断面を持つ、新設計のセミモノコックを採用した。
車両重量は、64年型RA271の525kgに対し、
RA272は498kgとなっている。
出力もアップし、230ps/1万3000rpmとなり、
中速トルクを太らせるためにエキゾーストパイプも改良された。

RA272型 1.5リッター・エンジン・ユニット

65年シーズンのホンダの第1戦は、5月30日のモナコ・グランプリ。
しかし、このレースは期待に反して、ホンダ車は2台とも最後列のスタートとなり、
ギンサー車は2周めにドライブシャフト折損で、
バックナム車も34周めにシフトリンケージ・トラブルで、それぞれリタイアしている。
ダンパーは、国産のものからコニ製へモナコ以降、
変更されることになった。
第3戦ベルギー・グランプリ(6月13日)は、ホンダ・チームにとってうれしい日となった。
舞台となるスパ・フランコルシャン・・サーキットも高速で名をなすコース。
ギンサーは3分49秒0のタイムを出し予選4位、
バックナムは3分52秒3で6位に着けた。
3分45秒4のグラム・ヒル(BRM)がポール・ポジションを取った。
小雨降る中で行なわれた決勝レース。
ギンサーは、4位からのスタートで、少しずつ遅れながらの疾走ではあったが、
ゴールには6位ではいった。
ホンダ・チームにとってはうれしい初入賞、初ポイント獲得であった。
バックナムはリタイアした。

 
1965年ベルギー・グランプリ。
ギンサー/RA272は6位入賞、初ポイントを挙げた。
ギンサー車の後ろはジム・クラークのロータス。



リッチー・ギンサーは、つづくフランスではイグニッション・トラブル(9周}、
イギリスはパワーダウンで早めにリタイアした。
しかしイギリス・グランプリのギンサー車は、たった1周だけだったがトップに立ち、
その実力を出し始めたものと注目された。
7月18日のオランダ・グランプリ(ザンドボールト)は、
ギンサーが予選で1分31秒0を出し3位に着けた。
そして決勝でも、うまいスタートを切り、2ラップにわたって首位を走った。
が、徐々にその順位を下げ、けっきょく6位でゴール、しかし2ポイントめを挙げた。
この日の勝利者は、ロータス・クライマックスV8のジム・クラークであった。
ホンダ・チームは、ひとつの決断をくだした。
それは、次のドイツ・グランプリを捨て、マシンを改造することであった。
日本に帰ったRA272は、
エンジンの前傾角度を、それまでの16度から25度に変え、
併せてマウント位置を100mm下げることになった。
ボディ形状も変えられた。
外観からもそれはすぐに分かった。
ノーズ部がかなり鋭い感じとなっているのだ。
重量も10kg、さらに軽くなった。
戦闘力を増したRA272マシンは、
第8戦イタリア・グランプリ(9月12日)と第9戦アメリカ・グランプリ(10月3日)に出場した。
しかしイタリアは、バックナム車が6位で予選を通過したものの、
ギンサー車共々エンジン・トラブルのため途中でリタイアした。
そしてアメリカ・グランプリの予選ではギンサー車3位、バックナム車12位。
しかし本番では、またも2台共本領を発揮できず下位を低迷、
それでも7位、10位と2台そろってのホンダ車初完走となった。


1965年イタリア・グランプリ。
マシンはかなりモディファイされている。


効を奏したホンダ式インジェクション
1965年F1世界選手権もいよいよ最終戦を迎えた。
メキシコ・グランプリである。
その舞台のリカルド・ロドリゲス・サーキットは、
海抜2000メートルの高地にある。
キャブレーションの設定の差が大きな勝負どころとなるのだ。
ホンダ・チームは、必勝を期し3台のRA272を持ち込み、
予選のふつか前からセッティング走行を続けた。
ホンダ式インジェクションは、ベーン噴射方式で、
間接噴射プランジャーのルーカスやボッシュと較べると、
噴射量を微妙に調整できるメリットがある。
それが、このメキシコの高地で果たして活かされるかどうか?
ギンサー車はまた、日の丸のところに左右の穴、ボディ両サイドにエアスクープを設け、
暑さ対策を施していた。
公式予選は、ギンサー車が1分56秒48で3位、バックナムが1分57秒88で10位であった。
ポールポジションは1分56秒17でジム・クラーク(ロータス)が取った。
決勝レースは、1周5kmのコースを65周・325km走る。
最初に飛び出したのは、ロータスのクラーク。
が、第一コーナーでギンサーのホンダがこれを捉え首位に立つ。
クラークはエンジン・トラブルに見舞われたのか、
やがて後退しはじめ8周でリタイアした。
マイク・スペンスのロータスと、
ブラバム・クライマックスV8のダン・ガーニーがギンサーを激しく追ったが、
快調に突っ走るギンサーとの差は開くばかり。
これまでのウップンをいっぺんに晴らすようなギンサーとホンダの走りだ。
暑さも手伝ってか、リタイアしていく者も相次いだ。


最後の最後に笑う
レースの約2/3を消化した40周時点の順位は、
ギンサー〜ガーニー〜スペンス〜グラハム・ヒル(BRM)
〜ジョー・シファート(ブラバム・クライマックス)....。
バックナムも8位に着けている。
2位ガーニーの追い上げは終盤になって、さらに激しくなった。
しかしギンサーも必死に逃げる。
この両者は、コースレコードを次々に塗り替え、満場の観衆を唸らせる。
レース開始後2時間08分32秒10,
激しく降られるチェッカード・フラッグを最初にかいくぐったのは、
ギンサーのホンダRA272であった。
そして2.89秒後にガーニーのブラバムがはいり、
バックナムのホンダも5位でゴールラインをかすめ去った。
ギンサー車の平均時速は151.710km/hであった。
**
表彰台には、ギンサーと共にホンダの中村良夫監督も上がり、
両者はこれ以上ない笑顔を振り巻き喜び合った。
ギンサーは、
「私自身のF1優勝も初めてだが、ホンダはBRMが10年かかったものを、
わずか11レースで達成した。それだけマシンとスタッフはすばらしかった」
と、その嬉しさを表現した。
事実、ホンダの勝利は、
デビュー以来14ヶ月でその目的を達成し、3リッター・マシンへと、
バトンをタッチしたのであった。
そしてこのレースは、
実はグッドイヤー・タイヤにとってもF1グランプリ・レース初勝利だったのである。


1.5リッター・フォーミュラ最後のレースに勝ち、
満面エミのリッチー・ギンサー。



(完)


以下の記事は「別セクション:(小物にまつわる逸話紹介)に掲載されているもので、
記事は完全に重複するが、「ホンダF1ものがたり」最終回ということと、記念カーバ
ッジおよびRA272スペックとを併照頂きたく、あえてダブって載せさせて頂いた。


(小物にまつわる逸話紹介)
世界を驚愕させた驚異のマシン、ホンダRA272
65年メキシコを制す!


1964年ドイツ・グランプリ。
その舞台となったニュルブルクリンク・サーキット{8月}でベールを脱いだ1台のマシン、
それがF1界を震撼とさせた、わがホンダの「タイプRA271」であった。
純白のボデイに日の丸をあしらったそのマシンは、
V型12気筒エンジンが実に横置きにマウントされていたのである。
それまでの常識をくつがえすパワーユニット搭載方式だったのだ。
そのRA271のパワーユニットにいったん火がはいった時、
エキゾーストノートは、「ホンダ・ミュージック」へと変身し、マシンはサーキットへ躍り出た。
だが、デビュー戦で好成績を残せるほどF1の世界は甘くない.。
残る64年シーズンと、翌65年前半と中盤戦、進化したRA272は期待に応えながらも3位以内にはいることはなかった。
が、1965年シーズンの最終戦、
しかも1.5リッター・フォーミュラ最後の掉尾を飾るメキシコ・グランプリ{10月24日}で、
リッチー・ギンサー{アメリカ}が劇的な勝利を納めたのである。
デビュー以来1年2カ月ぶりの優勝であった。
それは同時に国産レーシン・マシン世界初制覇の歴史的瞬間でもあった。
ちなみにホンダは、
F1参戦201戦{2000年9月24日/アメリカ・グランプリ終了時点}で71勝130敗の成績を残し、
今なお挑戦続行中なのは諸兄ご承知のとおりである。


                  
1965年メキシコ・グランプリに優勝したときの記念カーバッジ。
「タイプRA272」を中央に配し、
 下部にメキシコ国旗をあしらったカラフルなもの。
直径約90ミリ。


*typeRA272specification*
chassis=monocoque+pipeframe  suspension=double wishbone type
tire =goodyear/f:5.50-13 r:7.00-13
brake=disk/girling  fueltankcapacity=180litre
overall length[mm]=3950  width=1675  height=793  wheelbase=2300
tread f:1350 r:1370  groundclearance=80  weight=498kg
powerunit=watercooled DOHC 4valve/cylinder 12cylinder 60degreeV
bore&stroke=58.1x47mm displacement=1495cc
compression ratio=10.5:1 ignition system=battery magnetic ignition  
maximum horsepower=over230ps/11500rpm
oil lubrication system=dry sump  clutch=dry, multiplate
carburation=honda mechanical fuelinjection system
transmission=6foward speed,1reverse
engine weight=215kg[dry]
maximum speed=over300km/h



ホンダF1ものがたり
第1回:「ジョン・サーティーズの偉大なる賭け」
第2回:空白、再開、栄光の幕開け、
そしてビクトリー・エージへ