長期新連載

ホンダF1ものがたり(1)


Honda RA300

プロローグ
ジョン・サーティーズの偉大なる賭け
RA273/300/301の熱戦譜


1964年8月、東洋の国・日本から世界に挑戦する1台の1.5リッター・F1マシンが、西ドイツのニュルブルクリンク・サーキットに送られた。
そして、1年後の10月24日、最終戦メキシコ・グランプリで、この白に日の丸のマシン、横置きV型12気筒エンジンのホンダRA272は、リッチー・ギンサーの手でみごと優勝を飾った。
翌1966年、レギュレーションが3リッターとなったその年に、ホンダは、こんどは縦置きV12のRA273で挑戦した。
このRA273は大改造を施したRA300で、1967年9月のイタリア・モンツァに、名手ジョン・サーティーズの手で、ドラマチックな勝利を遂げるのである。

15年間のブランクの後、ホンダは3度めのチャレンジを行なった(1973年)。
1.5リッター・ターボチャージャー装備のスピリット201Cがそれで、その後ウイリアムズに乗せ換えたホンダは、無敵の強さを発揮する。
さらに、ウイリアムズからマクラーレンへ三度パワーユニットを乗せ換えたホンダは、それこそ連戦連勝、16戦中15勝の、破竹の快進撃を成し遂げたのだ。
NAエンジンとなった現在はさておき、1.5リッターからターボ・チャージド1.5リッターまでの、ホンダの活躍史のうち、第1回めとして、3リッター時代に劇的な勝ちを納めた、1967年のイタリア・グランプリを中心として、先ずはお届けする。


1991年F1専門誌に執筆・再録/白井景
写真:本田技研工業


John Surtees


デビュー・イヤーにポイント3を獲得
それまでの1.5リッターから、3リッターにレギュレーションが変更された1966年(昭和41年)のグランプリ・シーズンに、日本のホンダが挑戦させたのが、RA273であった。
タイプRA273は、モノコック・シャシーに90度V型12気筒エンジンを搭載したもので、この年のイタリア・グランプリ(第7戦/9月4日)から投入された。
400馬力の大パワーを武器として、3番めのグリッドから飛び出したリッチー・ギンサー(Richie Ginther、アメリカ)のホンダRA273は、13周めに3位に上がったが、17周めにタイヤ・バーストでクラッシュ、デビュー戦はリタイアで終わった。
つづくアメリカ・グランプリ(10月2日)に、ホンダ・チームは2カー・エントリー(ギンサー、ロニー・バックナム=Ronnie Bucknum、アメリカ)で臨み、ギンサー車はまたしても3位に上がりながらも、ミッション・トラブルで順位は落ちていき、バックナム車もエキゾースト・トラブルで、これまた戦列を去った。
この年の最終戦メキシコ・グランプリ(10月23日)は、ギンサー車が2列めの位置からダッシュ、1周終わった時点で2位。
しかしながら、そのポジションは徐々に落ちていき、けっきょく4位。バックナム車は8位に終わった。
ホンダ車は、デビュー・イヤーを、ポイント3を獲得して終えた。
上出来の成績といえたが、これは他車の多くがフル3リッター・マシンの開発が間に合わず、たとえ間に合ったとしても調子が出せずに終わったためである。


鈴鹿サーキットのストレートを走るジョン・サーティーズ/RA273。
サーティーズのホンダ・マシン初テスト。


名手J.サーティーズの手にゆだねられる
1967年、ホンダRA273は、名手ジョン・サーティーズ(john Surtees、イギリス)がドライブすることになった。
740kgあった66年仕様RA273は、エンジン(ブロックがアルミ合金からマグネシウムに換えられた)やミッション系統などで10kg、その他で計40kgの軽量化が図られ700kgとなっている。
ここでRA273のスペックを記そう。
エンジン:90度水冷V型12気筒・各気筒4バルブDOHC ボア・ストローク78x52.2mm 総排気量2992cc 
燃料噴射装置・ホンダ式低圧吸入管噴射式 点火方式・ホンダ式トランジスター点火 圧縮比10.5 潤滑方式・ドライサンプ 燃料ポンプ・電動式
変速機・常時噛合式前進5段交退1段 
最高出力・400ps以上/1万rpm 最高速350km/h以上
寸法mm・重量kg:ホイールベース2510 トレッド前1550 後1486 全長3955 全幅1688 全高845 最低地上高90 車両重量700kg
サスペンション:ダブルウイシュボーン ブレーキ:ディスク(ガーリング製) タイヤ:グッドイヤー 前9.20/15 後11.50/15 
燃料タンク:240リッター


RA273の心臓部/縦置きV12。

ジョン・サーティーズとRA273の、日の丸マシンのコンビは、第1戦の南アフリカ・グランプリから発進した。
もっとも、このグランプリには、旧タイプのRA273に多少のモデファイを施したマシンで臨むことになった。
RA273の完成には、ドライバー、サーティーズのアドバイスと実戦での技術改良が、いうまでもなく一番だからである。
決勝レース当日(1月2日)のキャラミ・サーキットは猛暑であった。
序盤は、デニス・フルム(ニュージーランド、ブラバムBT20/レプコV8)、ジャック・ブラバム(オーストラリア、同)、サーティーズの3者がレースを形成していた。
しかしサーティーズのホンダは、ミッション系に変調をきたし、ズルズルと下がり始め、けっきょく6位に落ちた。
だが、上位にいるドライバーもやがて後退し始め、サーティーズは3位をキープして80周・327.520kmのゴール(1周遅れ)に飛び込んだ。
サーティーズの足まわりりのセッティングが早くも効を奏したのである。
幸先のいいスタートであった。
優勝は、クーパー・マセラーティV8のペドロ・ロドリゲス(メキシコ)、2位はクーパー・クライマックスV8のジョン・ラブ(ローデシア)であった。
1967年の第2戦はモナコ・グランプリ(5月7日)。
サーティーズ/ホンダRA273は、予選3位で通過した。
ポールポジションはジャック・ブラバム(ブラバムBT20/レプコV8)、予選2位はフェラーリ312/V12のロレンツォ・バンディーニ(イタリア)。
15周までは、ジャッキー・スチュワート(イギリス)の2リッター・BRMがトップにいたが、
彼がリタイアしてからは、ブラバムのデニス・フルムが浮上、そのままのポジションを保ちながらチェッカード・フラッグを受けた。
フルムを追っていたバンディーニのフェラーリは82周め、シケインで車輪を垂れ幕に引っ掛け、バランスを失ってガードレールに激突、クラッシュ・炎上、猛炎に包まれる事故があった。
病院船で、病院に運ばれたが、3日後、バンディーニは不幸にも死亡した。
サーティーズは、バンディーニに着けて3位を走っていたが、32周めにエンジン・トラブルのためリタイアしている。


   
大改造が施され、タイプはRA300となった



苦戦の末、マシンを大改造

第3戦のオランダ・グランプリ(6月4日)は、F1史上、歴史に残るイベントとなった。
というのは、あのフォードDFVエンジンがロータスに搭載されデビュー、
ジム・クラークのドライビングで華々しい優勝を飾ったからである。
1983年までに通算155勝を挙げたフォード(コスワース)・エンジンの記念すべき1勝であった。
ホンダRA273は、南アフリカに次いでデフロックの問題を抱えつつ、ここザンドボールト・サーキットでは、スタートでラフ(砂地)に突っ込み、
スロットルプレートに砂を噛ませてしまい、スタック。3周めにリタイアを喫している。
第4戦ベルギー・グランプリ(6月18日)は、ウエスレークV型12気筒を積むイーグルが、
アメリカ人のダン・ガーニーのドライビングで勝利をものにしている。
RA273は、こんどはピストン吹き抜けでリタイアした。
フランス・グランプリ(7月2日)は、ニュー・エンジン未到着のため欠場、
次のイギリス(7月15日)は、燃料噴射システムが、それまでの連続噴射から定時噴射式へと切り換えられたものが載せられ(旧エンジン+定時噴射システム)、
2周遅れながら6位に入賞した。
ホンダ・チームは、ドイツ・グランプリ(8月6日)に出場しつつも、マシンの大改造を行なうこととなった。
約400馬力のパワーが路面に、有効に生かし切れていないこと、またデフ等の問題点をチェックすることにあった。
が、ドイツ・グランプリは、RA273はサーティーズが健闘して4位にはいった。
大改造には、ホンダのスタッフと共に、ローラ・カーズのスタッフも加わった。
設計陣には、ローラ・カーズのエリック・ブロードレーやトニー・サウスゲート、マイケル・スミスなど、そうそうたるメンバーが参加した。
こうして、約1ヶ月の突貫工事でRA273は、RA300に大変身した。
シャシーはインディ用ローラT90が採用された。
したがってT90のパーツも多用されている。
モノコックの形状も、V型12気筒を搭載するため、ローラのモノコック・エンジンベイが切削され、鋼管のサブフレームが新たに取り付けられた。
このサブフレームで、エンジンとサスペンションを支えているのだ。
デフロックも、これまで問題があったホンダ製からZF製へ換えられた。
こうして、実に100kg(乾燥重量590kg)の軽量化が図られたのである。
軽量化は、当然ながらハンドリングの良さを生むことにつながる。
併せてタイヤも、それまでのグッドイヤーからファイアストーンに換えられた。
このタイプRA300は、HONDAとLOLA製作協力ということで、”ホンドーラ”という俗名を持った。
RA300は、外観上からも、RA273とガラリと変わった感じがする。
それはノーズ部分というより、全身がスリムとなり、赤いストライプも、それまでのサイドからセンターに一直線に伸びたために、さらにその感を増しているのである。
ボディ寸法は、ホイールベースが2510から2464mm、トレッド前1550から1464mm、後1486から1442mm,全幅1688から1788mmへとそれぞれ変更された。
燃料タンクも、250から200リッターへと換えられた。
エンジン関係では、ドイツ・グランプリから投入されたものだが、エキゾーストパイプの形状がゆるやかとなり、
Vバンク中央に高々と盛り上げる形を採っている。
このような改良で約20馬力がアップ。420ps/1万1500rpmとなった。
ちなみに、フェラーリV8が403馬力、フォードDFV・V8が405馬力である。


420馬力にアップされたRA・E型。

J.サーティーズの輝かしい戦歴
”ビッグ・ジョン”と呼ばれるジョン・サーティーズ(John Surtees)は、1934年2月11日、イギリスはロンドンに近いウエムスターハムに生まれた。
父親のジャック・サーティーズは、モーターサイクルの修理販売業を営んでおり、レーシング・ライダーとしても知られた。
ジョンは、子供の頃から2輪車とレースの環境の中に育ち、15歳の時、モーターサイクル・レースに初出場、1951年にはブランズハッチで優勝を遂げている・
1954年、国内レース56レース中40勝、翌55年には76レース中、実に68勝を挙げているのだ。
この年の末、イタリアのMVアグスタ・チームと契約、56年からワールド・チャンピオンシップに出場した。
1956年、1年めにして早くも500ccのチャンピオンとなり、58・59・60年の3年間は、350と500ccのダブル・チャンピオンとなっている。
60年3月には、2輪レースのかたわら、4輪のフォーミュラ・ジュニアでグッドウッドのレースに出場、2位。5月には初めてF1マシンに乗った。
モナコ・グランプリでは、ロータス・チームから出場したが、この時はミッション・トラブルでリタイア。
が、2輪のレースの合間をみて、ジョン・サーティーズはF1チャンピオンシップに4回出場した。
そして7月のイギリス・グランプリでは、ロータス18でみごと2位に入賞、4輪デビューの年にチャンピオンシップ・ポイント6を挙げ12位となっているのだ。
1961年、サーティーズはクーパーに乗り、ベルギーとドイツに5位となり、ポイント4で11位となった。
前年までにバイク・レースからは手を引いている。
1962年はローラ・チームと契約を結び、モナコ4位、ベルギーとフランス5位、イギリスとドイツ2位と計19点を挙げてランキング4位となっている。
1962年末には、フェラーリ・チームから勧誘を受け、3年契約を結ぶ。
そして63年の西ドイツ・グランプリ(8月4日、ニュルブルクリンク)で、タイプ156をドライブ、ついにF1初優勝を飾る。
さらにイギリスでも2位にはいり、この年19点を挙げ、4位となった。
1964年は、フェラーリ158を駆り、オランダに2位、イギリス3位、西ドイツ・優勝、イタリア・優勝、アメリカとメキシコに共に2位となり、
計40点で、グラハム・ヒル(BRM)の39点をしのいでワールド・チャンピオンに輝いたのだ。
サーティーズ27歳の時である。
2輪と4輪のワールド・チャンピオンとなったのは、後にも先にもジョン・サーティーズただ一人である。
1965年もフェラーリ・チームから出場、28ポイントで2位となったが、途中、御大エンツォ・フェラーリと意見がぶつかり、同チームを去った。

決戦モンツァ・サーキット
ジョン・サーティーズの、たってのお願いが叶ってのホンダ入りとなり、ギンサー、バックナムとドライブを交代する形となったのだ。
さて、改造なったホンダRA300とホンダ・チームは、第9戦イタリア・グランプリが行なわれるモンツァ・サーキットへと出発した。
RA300は、正式の計時(水、オイルを含む)で610kgであった。
1967年9月9日、プラクティスが行なわれる1周5.750kmのモンツァ・サーキットは、激しい土砂降りに見舞われた。
このため公式予選が30分間延長された。
予選第1位は、1分28秒5のタイムを出したロータスのジム・クラーク、第2位はジャック・ブラバム、そして第3位はブルース・マクラーレン(ニュージーランド)。
サーティーズは、予選9位で4列めからのスタートである。
ロータスは、モーリス・フィリップ設計のタイプ49に、400ps/9000rpm・32バルブのDFV・V8エンジンを搭載。
ブラバムはオランダ・グランプリから、それまでのBT19/20に換えてBT24に330馬力と、多少馬力は少ないが、安定性が高いレプコV8を、
そしてマクラーレンは、タイプM5AにBRM・V12を積む。
この他、クリス・エモン(ニュージーランド)がフェラーリ312・V12・48バルブで、ルドビコ・スカルフィオッティ(イタリア)がイーグル・ウエスレークV12で、
さらにジャッキー・イクス(ベルギー)がクーパー・クライマックスV8で、ジャッキー・スチュワート、マイク・スペンス(イギリス)、クリス・アーウイン(同)が揃ってBRM・H型16気筒で出場する。
9月10日の決勝日は、天気も晴れて15万人の観衆がモンツァ・サーキットに押し掛けてきた。
走行距離は68周・242.964kmだ。


サーティーズのホンダとエモンのフェラーリ。

プロフェッショナル3者の壮烈な争い

決勝レースは、ブラバムのフライングぎりぎりの好スタートで幕を切った。
1周め、ダン・ガーニー(アメリカ)のイーグルがトップでグランドスタンド前を通過する。
これにブラバム、クラーク、グラハム・ヒル(イギリス、ロータス)、スチュワートが続く。
5周め、トップ、ガーニーのイーグル・ウエスレークが、ピストンのコンロッドを折ってリタイア。
イーグルで初出場のスカルフィオッティもタイミングギヤ・トラブルでこれまたリタイアとなった。
ガーニーに替わって首位はクラーク/ロータスとなった。
サーティーズ/ホンダは、マクラーレン/マクラーレン、エモン/フェラーリと第2集団を形成するが、
やがてこの集団のリーダーとなった。
12周め、先頭を走るクラークのロータスが、タイヤ・バーストで急遽ピットイン、1周分のタイムロスをするが、
クラークはそれでもピットアウト。
クラークに替わって首位に立ったのは、同僚グラハム・ヒル。
そのヒル車も59周め、エンジン・ブローで白煙を猛々と挙げながらピットイン。やがてリタイアの憂き目をみた。
トップに立ったのはジャック・ブラバム。
ジワジワと追い上げてきたサーティーズのホンダは、この時点で2位に浮上した。
サーティーズは、チャンスとばかりにブラバムを猛追する。
予選中の彼のベスト・ラップタイムを2秒も短縮する1分28秒台の激しい走りである。
彼は、最高ラップをも叩き出しながら1周、2〜3秒の割でその差を縮めていく。
ジョン・サーティーズは、彼のクセでもある、身体をマシンに沈める態勢での走りだ。
タイヤ・トラブルで1周分をロスしたジム・クラークも、すさまじいばかりの迫力で、トップ集団のブラバム、サーティーズの2者を追う。
そして、信じられないほどの走りを見せてクラークは、ついにサーティーズに並んだ。
そのクラークは、こんどは、ブラバムに追いつき、一瞬の隙を逃さず、トップのブラバムを抜いた。
サーティーズも、ブラバムのスリップストリームにはいって、巧みにこれを抜いた。
トップ・クラーク、2位・サーティーズ、3位・ブラバム。
が、3者はダンゴ状だ。
68周め、最後のラップ。
15万人の観衆は総立ち。
3者が、すさまじい勢いで、僅差でグランドスタンド前を駆け抜ける。
そして第1コーナー。
ここで突然、クラークのロータス49/DFVは、スピードが鈍り始めた。
信じられないことにロータスは、ガス欠となってしまったのだ。
残った2台の、サーティーズとブラバム2者は、
テール・ツー・ノーズで一騎打ちの様相を呈しながら、残りの距離を突っ走る。

そのままの態勢で、2車は最終コーナーにはいって、そして抜けた。
この時、最終コーナーにほんの少し散っていたオイルに、ブラバムのマシンは足を取られ一瞬たじろいだ。
が、彼はすぐにマシンの態勢を立て直し、ホンダを猛追する。
ブラバムのマシンは、直後、サーティーズ/ホンダのスリップ・ストリームにはいった。
ゴールはすぐそこだ。
ブラバムはサーティーズのホンダから抜けた。
サーティーズは、エンジンもこわれよ、とばかりにアクセルを踏みつける。
ギヤは、5速の手前の4速に入れたまま。
RA300のエンジンは1万2000回転に達している。
サーティーズの姿勢は、例によって身体を埋めたままだ。
2者のマシンの距離は2.5m。タイムにして0.2秒。
そこでチェッカード・フラッグは振られた。
5速に入れたブラバムがホンダを抜き去ったのは、この瞬間の、ほんの後だった。


劇的なゴールは、サーティーズ/ホンダに軍配が上がった。

プロフェッショナル・ドライバー3者による、モンツァを舞台とした、熾烈な戦いは終わった。
表彰台に登った3人は、その激しさはウソだったかのように、興奮もなく、静かに健闘を讃え合った。
やがてサーティーズは、満面にエミを表しながら、左手に優勝のカップを、そして右手を高く挙げながら、観衆に応えた。
こうして1時間43分45秒にわたる男の、戦いのドラマは終わった。
サーティーズ/ホンダRA300の平均速度は226.129km/hのハイスピードであった。
満足し切った観衆は、興奮の余韻を残しながら、家路に着いた。


表彰台上の、喜びのサーティーズ。

1967年イタリア・グランプリの結果は次のとおりである。
1位:ジョン・サーティーズ ホンダRA300
1時間43分45秒0 平均226.129km/h
2位:ジャック・ブラバム ブラバムBT24・レプコ 1時間43分45秒02
3位:ジム・クラーク ロータス49フォード 1時間44分08秒01
4位:ヨッヘン・リント クーパー・マセラーティ 1時間44分41秒06
5位:マイク・スペンス BRM 1周遅れ
6位:ジャッキー・イクス クーパー・マセラーティ 2周遅れ
最高ラップ:新記録
ジム・クラーク ロータス49フォード
1分28秒5 平均233.902km/h


RA301はストライプは2本となり、
エキパイも外側になったため、
イメージはずいぶんと変わった。

68年は、より軽量化されたRA301で....
RA273,300で1967年シーズンを戦ったサーティーズ/ホンダの選手権ポイントは20点で、
ドライバーズ部門、コンストラクターズ部門共に4位であった。
チャンピオンは、ブラバムのデニス・フルムで51点、2位も46点の(ジャック)ブラバムであった。
1968年は、ホンダはニューマシンRA301を開発した。
シャシーは、技術研究所と、クーパー・チームからホンダ・チームに移籍したデリック・ホワイトの日英合作で進められた。
もちろんフルモノコックである。
第1戦/南アフリカ(キャラミ、1月1日)は、RA300で臨んだ。
しかし、燃料タンクのブりーザーにゴミが詰まり、サーティーズはマシンをだましだまし走らせたが、けっきょく8位で終わった。
だが、RA301の開発は遅れに遅れ、4月に鈴鹿サーキットを試走するという具合だった。
第2戦/スペイン・グランプリに出場すべく、日本から送り出されたRA301のスペックは、
RA273,300との相違点のみを記すと、次のようになる。
圧縮比10.5から11.5へ,最高出力420ps以上/1万500rpmから450ps以上へ、
最高速は350km/h以上から360km/h以上へアップした。
寸法的にはホイールベース2464から2435mmへ、トレッド前1442から1400mm、後1442から1380mmへ。
全高845から897mm、最低地上高90から85mmへそれぞれ変更された。
エンジンは、クロスフローの流れを逆とした。
つまり、Vバンクの谷間に吸気系、外側に排気系(したがってエキゾースト・パイプは外側になった。エンジンの冷却性は、
RA273/300よりグンと増した)とした。
さらに燃焼室形状も改良された。
バルブ・スプリングは、トーションバー・バルブスプリングで作動されるようになった。
これは、フリクションロスの低下を意味し、サージング限界が向上し、
したがって柔らかいバルブ・スプリングの使用が可能となっている。
また、燃料噴射ポンプの噴射圧も上げられている。
こうして450馬力(初期は440馬力)が確保された。
足まわりは、基本的には変わらないが、ブレーキ取り付け位置がインボードからアウトボード・タイプに変更されている。
重量は530kgとなり、RA300よりさらに80kgも軽減されている。


RA273の頃とは、スタイル、機能共
飛躍的に向上したRA301だったが.....

フランスの2位を最高に、苦戦がつづく.....
第2戦/スペイン・グランプリ(5月12日)でのRA301は、決勝で3位を走りながらもミッション・トラブルでリタイア。
第3戦/モナコ・グランプリ(5月26日)では、ブレーキがソリッドからベンチレーテッドのものに変更されていた。
RA301とジョン・サーティーズのコンビは、予選3位の好位置に着けた。
決勝でも5周めに、グラハム・ヒルのロータス49B/DFVの背後に迫り2位を快走、
が、17周めに再びギヤボックス・トラブルに見舞われ戦線から脱落する。
第4戦/ベルギー・グランプリ(6月9日)は、スペインでの、燃費の極端の悪さを徹底解明したうえで、
プラグをチャンピオン製に換え、スパ・フランコルシャンに乗り込んだ。
RA301は、予想以上に良く走り、決勝レースでも、1周めからクリス・エモンのフェラーリ312とデッドヒートを展開した。
5周め、エモンに1秒、3位のジャッキー・イクス(フェラーリ)に4秒の差を付けて飛ばす。
10周め、2位となったデニス・フルムのマクラーレンM9Aに、実に20秒の差を付けて独走態勢を築いた。
優勝か、と思わせるRA301の快調さではあったが、またしても12周め、
こんどはリヤサスペンション取り付け部折損のため、マシンは停止してしまったのだ。
無念のリタイアである。
軽量化のための無理が、ここにきて出てしまったものと思われる。
リタイアしたのは、絶対パワーを誇るホンダお得意の高速コース(スパ・フランコルシャン・サーキット)。
ベルギー・グランプリでの快調さは、今後に明るい見通しを立てさせたが、
意に反してRA301は、その後、フランスを除いて苦戦を強いられることになる。
その第5戦/フランス・グランプリ(7月7日)は、雨の決勝レースであった。
3周め、サーティーズは、ジャッキー・スチュワートのマトラMS/DFV、ヨッヘン・リントのブラバムBT26/DFVをかわして2位に浮上。
RA301は、このままのポジションをキープして、みごと2位に入賞した。
しかし、軽量で、かつパワフルな”自然”空冷V8のエンジンを搭載したホンダRA302も、
このレースに出場しており、こちらは、序盤にクラッシュ・炎上事故を起こして、
不幸にもドライバーは死亡するという結果を招いてしまった。
ホンダ・チームにとって、まさに明暗分けたフランス・グランプリとなってしまった。

3リッター・シーズン終了、長い空白が.....。
第6戦/イギリス・グランプリ(7月20日)は、折しもハイウイングがブームとなり始めており、
RA301もこれを取り付けて出場した。
レース中盤にかけて、序じょにその位置を上げていったRA301は、4位にまで浮上したが、
34周めに、ダウンフォースを得るために取り付けたそのウイングの支柱にヒビがはいり、窮地に陥った。
それでもウイングのない、オーバーステアのマシンを、だましだましながら走らせ5位でゴールした。
第7戦/ドイツ・グランプリは、4位に着けながらエンジン・トラブル(冷却水漏れ)でリタイア。
第8戦/イタリア・グランプリ(9月8日)は、新加入のデイビッド・ホッブス(オランダ)との2カー・エントリーで臨んだ。
ここは、ホンダお得意の高速コース。
しかも前年のこのレースで、サーティーズが美酒を飲んでいるゲンのいいモンツァ・サーキットである。
サーティーズのRA301は、1分26秒07を叩き出し、初のポールポジションを獲得。
序盤もクリス・エモン(フェラーリ312)、ブルース・マクラーレン(M7A/DFV)3車で熱戦を展開したが、
9周め、エモンのマシンがスピン、これを避けようと、左へ寄ったところでRA301はガードレールに接触、
ホイールにダメージを受けて無念のリタイアとなってしまった。
ホッブスのほうも、マイペースで走っていたが、44周め、
最終コーナーの立ち上がりで、エンジン・トラブルのためリタイアしてしまった。
第9戦/カナダ・グランプリ(9月22日)は、デフ・トラブルで10周めに、
第10戦/アメリカ・グランプリ(10月6日)は、サーティーズが9番めのポジションから追い上げ、
14周めに5位、そして4,3位と上がってそのままゴールした。
1968年シーズンの最終戦/メキシコ・グランプリ(11月3日)は、
BRM・V12をプラクティスで壊してしまった、ヨアキム・ボニエ(スウェーデン)が2台めのRA301に乗ることになった。
グリッド2列めから飛び出したサーティーズは、第1コーナーまでにトップに立った。
が、2周めに2位、3周めには3位に落ち、11周めにピットにはいってリタイアしてしまった。
原因不明のエンジン・トラブルであった。
いっぽう、ボニエのほうは、終始マイペースで走り切り5位に入賞してメキシコ・グランプリは終了した。
***
こうして、1966年9月のイタリア・グランプリから始まった、ホンダの3リッター・マシンによる
グランプリ・オペレーションは、1968年メキシコ・グランプリで終結した。
ジョン・サーティーズによる、67年の劇的なRA300の勝利、必勝を期して臨んだ68年シーズンの、
信じられない15戦中10戦リタイアという結果。
そして740kgという重いウエイトから540kgまで軽くしたことを始めとする技術的努力など、
数々のドラマと、スタッフの研鑽ぶりは、またF1ファンを十分に魅了するシーズンでもあった。
そして惜しくもホンダは、この後15年間、グランプリからその姿を消したのである。


Honda RA301/John Surtees
***
「ホンダF1ものがたり」第2回は、
(本来は/順番からいくと、世界のF1グランプリに、1964年、日本から初めて挑戦し、
辛酸し、苦労の末に勝利した=1965年メキシコ・グランプリ=1.5リッター時代を最初に掲載すべきだったのだが、
都合上最終回とさせて頂く)
 「空白、再開、栄光の幕開け、そしてビクトリー・エージへ」ーRA260E、
RA163E+RA100E、RA121Eー1980〜1991を掲載します。引き続きご覧ください。


(第1回・了)