[連載]

ホンダF1ものがたり
(2)

Spirit 201C/Honda RA163E

空白、再開、栄光の幕開け、
そしてビクトリー・エージへ

RA260E、163E〜168E、109E、121Eの熱戦譜

RA122E

15年ぶりのF1フィールド・カムバックを狙う日本のホンダは、先ずその足がかりとしてF2エンジンを製作した。
そして、充分な成果を挙げた上でF1にチャレンジした。
スピリット、ウイリアムズ、ロータス、マクラーレンなどの各シャシーに積まれた鋳鉄ブロックの
80度V6・24バルブ・エンジンは、IHI製(石川島播磨重工業)のターボ・チャージャー付加で、
最終仕様では、実に1010馬力を発生する超高出のパワーソースとなり、
無敵(88年シーズンは16戦中15勝)の勝ちっぷりを示したのである。
いっぽうで、このV6レーシング・エンジンをベースとしたデチューン版も作られ、
これらはホンダの一般乗用車にも載せられた。
ホンダの”走る実験室”は、文字どおり、その成果が挙げられたのである。
3回に分けてお伝えする、「ホンダF1ものがたり」の2回めは、
この驚異のターボ時代に加え、NA時代を付加する。



1991年F1専門誌に執筆・再録/白井景
写真:本田技研工業、kei−shirai


RA163E・V6 Turbo Charged Engine



再挑戦は、先ずF2から
1965年のメキシコ・グランプリに、1.5リッターのRA272でF1初優勝を遂げ、
2年後の1967年に3リッターのRA300で再び勝利を勝ち取った日本のホンダは、
その後、長い沈黙を守った。
”走る実験室”としての課題を一応終了し、あまりにも厳しい排ガス規制にも対処、
そして本格的4輪乗用車戦略へとホンダは、
その後あわただしい時代の流れに身を置き、時は過ぎていった。
F1撤退(68年シーズン)15年後の1983年(昭和58年)、ホンダは再びF1戦線に復帰した。
それは、突然という形容も出来るし、必然という形容も見方によっては出来る復帰の仕方であった。
というのは、その数年前には、ホンダはV6エンジンを完成させ、F2レースに参入、
やがて確たる戦果をものにしていたからである。
だからといって、F1参入は次なるステップとは、簡単にはいかない。
というよりも、F2とF1とは、まったく次元が異なる、という言い方のほうが、
より正しい言い方ではなかろうか。
順序立てて話を進めよう。
1973年末、本田技研の和光工場で、ひとつのレーシング・エンジンが完成した。
そのパワーユニットトは、バンク角80度のV型6気筒で、シリンダーブロックは鋳鉄で出来ていた。
排気量は2リッターである。
ホンダでは、このパワーユニットを「RA260E」と呼称した。
かつてホンダは、1965年から翌66年にかけてF2用のレーシング・エンジンを作り、
やがて向かうところ敵なしの快進撃を続けたことがある。
そのエンジンは、RA302E型と呼ばれた。
直列4気筒で排気量1000cc。
わずか1リッターながら150ps/1万1000rpmの高出力を発生させていたのである。
RA302E型エンジンは、ブラバムのシャシーに積まれ、
濃いグリーンのボディ・プロフィールで世界各地のF2を転戦、
特に66年シーズンは、ブラバム・チームの御大ジャック・ブラバムとデニス・フルムのコンビで実に12戦中11戦までを、
勝利を手中に納め、ホンダ・エンジンの威力をまざまざと見せつけたのである。


連戦連勝の活躍をした
1000cc・4気筒エンジン搭載のF2(ブラバム・ホンダ)



81年にF2のチャンプに....
そのF2シリーズに久々のカムバックとなったホンダだが、RA260E・V6エンジンの搭載シャシーは、
ロン・トーラナックが主宰するラルト・カーズ(Ralt Cars、1974年設立)に決まった。
ロン・トーラナックは、先の1リッター・F2のシャシー・メーカー、ブラバムのデザイナー。
その縁もあって、ホンダF2のパートナーはラルトに決まったのだ。
両者の間で技術的な詰めが行なわれた結果、
最終的にF2マシン「ラルトRH6/RA260E」は生まれた。
完成は1980年5月であった。
デビュー・レースは、6月8日のイギリス・シルバーストーン「マルボロF2トロフィー・レース」で、
ドライバーはナイジェル・マンセルが選ばれた。
ラルトRH6/RA260Eは、予選で30台中14位にはいり、決勝でも11位になる、まずまずの成績を納めたのである。
つづく6月22日のゾルダーでは予選9位、決勝でも5位となり、初の入賞となった。
が、8月3日のエナと同10日のミサノは共にリタイア。
そして迎えた最終戦ホッケンハイム(9月28日)では、ついに2位に入賞するまでにシャシー/エンジンは完成されていた。
1981年シーズンのラルトとホンダのコンビは強力であった。
このマシンに乗ったジェフ・リース(Geoff Lees、イギリス)は優勝・3回、2位・3回の好成績で、
2位(ティエリー・ブーツェン、マーチ812/BMW)に14点差をつけ、堂々のヨーロッパF2チャンピオンとなった。
いっぽう、国内でも、RA260Eエンジンは強力で、中嶋悟選手とI&Iのコンビは、全日本F2シリーズと
鈴鹿F2シリーズを制覇してしまったのである。
82年シーズンもホンダは、F2制覇を目論んだ。
ラルトとスピリット(Spirit)の両シャシーにRA260Eを搭載してシリーズを転戦したのである。
が、ホンダの前に大きく立ちはだかったBMWエンジンのため、
RA260Eは、けっきょくトータルで3位に留まることになった。
国内では、中嶋選手がまたも全日本F2と鈴鹿F2シリーズを制覇した。


ジェフ・リースが乗った
ホンダV6エンジン搭載のF2。


ウイリアムズ/ターボ・チャージドV6
ホンダF1。

F1へアタック開始!
1983年、ホンダはついにF1に復帰した。
それまでのF2での戦いが、大きな裏付けとなったのは言うまでもない。
ホンダのニューF1エンジンは、基本的には、RA260E(2リッター)をスケールダウンし、
これにターボチャージャーを付加したものであった。
F1用ホンダ・エンジンの名称は「RA163E」。
F2と同じボア(79.0mm)を持ち、ストロークは50.8mmで、総排気量は1493.27ccであった。
圧縮比は9.4だ。
Vバンクは80度V6で、1気筒当たり4バルブのDOHC。バルブ挟み角は32度。
最高許容回転数は1万4000rpm。
シリンダーブロック/ヘッドの材質は鋳鉄/アルミニウム、ライナーはニカシルウエット・アルミニウム。
ベアリングは4メイン・ベアリングだ。
インジェクションは、ホンダ製PGMーF1。
コンロッドはチタニウム製、ピストンは軽合金が使われた。エンジン重量は146kg。
ターボチャージャーはKKK製タイプ26ツインを装着し、出力は600ps/1万1800rpmであった。
このRA163Eは、スピリット製のシャシー(タイプ201C)に搭載され、
1983年7月16日、イギリスのシルバーストーン・サーキットを舞台に、その真価が問われることになった。
「1983年F1世界選手権第9戦/イギリス・グランプリ」のそのレースで、
ステファン・ヨハンソン(Stefan Johansson、スウェーデン)が操るスピリット・ホンダは、
公式予選で14位を得ながら、かつ決勝レースで4周めには10位に上がりながらも、
燃料ポンプのベルト切れでリタイアを喫した。
15年めにF1へ復帰したホンダは、デビュー戦を含め6戦をスピリット(201,201C)で転戦し、
最終戦の南アフリカ・グランプリには、ウイリアムズFW09シャシーにRA163Eエンジンが換装された。
そのウイリアムズFW08C/RA163E乗るケケ・ロズベルグ(Keke Roseberg、フィンランド)は、みごと5位入賞を果たしたのである。
ホンダ・パワーは、翌1984年シーズン、スピリットに替わってウイリアムズ・シャシーに搭載されることになり、
第1戦/ブラジル・グランプリ(3月25日)から投入された。
ここでケケ・ロズベルグの駆るウイリアムズFW09B・ホンダは、大健闘を見せ2位に入賞。
その余勢を駆り、このコンビは第3戦/ベルギーに4位、第5戦/フランス6位、第6戦/モナコ4位と驚異の入賞をつづけ、
第9戦/アメリカ・グランプリでついに優勝を成し遂げたのである。
ケケ・ロズベルグは、この年トータル20.5ポイントを挙げ、ドライバーズ・チャンピオンシップで8位、
ウイリアムズ・ホンダはコンストラクターズ部門で25.5ポイント(内5ポイントはジョディ・シェクターが挙げたもの)を獲得し6位となった。




ホンダ・パワーは
ウイリアムズとロータスに搭載された。


1986年、メイクスの王座へ
1985年もホンダは、ウイリアムズ・チームにパワーユットを供給した。
163E型V6エンジンは、この年中頃に、改良されたものに換装された。
この結果、より剛性が高くなった鋳鉄ブロックのエンジンで、
予選用が過給圧4.0バールから実に950ps/1万1500rpmの高出力が得られたのである。
ターボはIHI製である。
このハイパワー・マシンを駆ったナイジェル・マンセルとケケ・ロズベルグの両選手は、
この年合わせて3勝し、うち第15戦/南アフリカ・グランプリでは、ワン・ツー・フィニッシュの強さを発揮したのである。
ドライバーズ部門の85年ランキングは、ロズベルグ(40点)が3位、マンセル(31点)が6位。
コンストラクターズ部門は82点でウイリアムズ/ホンダが2位に食い込んだ。
ホンダが、ウイリアムズ・チームにエンジンを供給して3年めの1986年、
ドライバーに前年のマンセルと新加入のネルソン・ピケを配し、グランプリ・シリーズを両者はFW11で突っ走り(全16戦中9勝)、
ウイリアムズ/ホンダをコンストラクターズ・チャンピオンに押し上げたのである。
ドライバーズ部門ではマンセルが70点で2位、ピケが69点で3位となった。
86年用のRA163E型エンジンは、25リッターの燃料カットのレギュレーションに合わせ、
トルエン・ベースの燃料改良に合わせたエンジンとしている。
1987年、ホンダはウイリアムズとロータスの2チームにエンジンを供給した。
ウイリアムズはFW11Bに、ロータスは99Tに、ホンダRA167Eエンジンが搭載されたのだ。
167E型エンジンは、ディストリビューターレス・イグニッションが採用されており、
これによりデトネーションが発生する限界近くまで使用可能となった。
また4.0バーレルのポップオフ・バルブが設けられたにもかかわらず、
エンジン回転は1万2000rpmまでまわり、出力はなんと1010馬力となっている。
圧縮比は7.4から8.4に、途中から引き上げられる措置がとられた。
ウイリアムズ・チームとロータス・チームは、この強力なパワーユニットを手にして、
ウイリアムズ・チームがポールポジションを11回、優勝を11回、
ロータスはポールポジションを1回、優勝を2回ものにしたのである。
ホンダRA型V6パワーユニットを強力と表現する以外に、どんな表現があるのだろうか?
超高出のすさまじい、戦闘力の高いパワーユットだったのである。

空前の記録、16戦中15勝を樹立!
そして迎えたターボチャージャー使用
最終年の1988年(この年限りで規則によりターボは禁止された)。
ホンダのエンジン供給先はロータス、そしてマクラーレンとなった。
タイプ名はRA168E。
XE1〜XE3となったそのパワーユニットは、2.5バールのポップオフ・バルブとなっていた。
が、いずれにしても、このRA168EはマクラーレンはMP4/4型に、ロータスは100T型に積まれ出撃した。
その結果、マクラーレン・ホンダは、かつてない記録を作ることになった。
というのも、アラン・プロストとアイルトン・セナの両ドライバーを擁したマクラーレン・チームは、
全16戦中15戦の勝利を獲得したからである。
コンストラクターズ・チャンピオンシップも、マクラーレン/ホンダが手にしたのはいうまでもない。
ドライバーズ・チャンピオンは、トータル90ポイントを挙げたアイルトン・セナのものとなっている。
**
1983年にF1に復帰したホンダは、6年後の88年には16戦中15勝の、
F1史上に、記録上の大ピラミッドを打ち立てるまでの成功を納めたわけである。
そして1987年から始まった鈴鹿サーキットの日本グランプリでも、
その力強いエンジン・パワーを、われわれ日本人にファンにも堪能させてくれたのだ。
いっぽうで、鋳鉄ブロックのV6エンジンは、ホンダの乗用車にもそのノウハウは活かされつづけている。
ホンダの”走る実験室”としてのその言葉は、疑いようもなく、確実に市販車にフィードバックされているのだ。

 
ホンダRA163E〜168Eエンジン・ユニット。


NA時代のホンダ・パワー
ところで、1989年からF1のレギュレーションは大幅に変わった。
3.5リッターとなった排気量はともかく、ターボチャージャーは禁止され、最大気筒数も12気筒までとなったのである。
NA時代(ノーマル・アスピレーション=自然吸気)と呼ばれたその時代にホンダは、
RA109E型・V型10気筒エンジンを投入した。
供給先は、前年と同じマクラーレン(MP4/5B)である。
RA109E型は、72度V10で、ターボ時代と異なり、シリンダーブロックはアルミニューム製。
ボア・ストロークは92x52.5mm、総排気量3493cc。
インジェクションはPGM−F1、出力は680ps/1万2500rpmと発表された。
マクラーレン・チームのドライバーは、ターボ時代同様、アイルトン・セナとアラン・プロストのふたり。
グッドイヤーを履いた2台のマクラーレン(MP4/5)は、89年の序盤から飛ばした。
第1戦のブラジル・グランプリこそ1位の座をフェラーリに譲ったものの、
第2戦:サンマリノ 1,2位
第3戦:モナコ 同
第4戦:メキシコ 1位
第5戦:アメリカ 同
第7戦:フランス 同
第8戦:イギリス 同
第9戦:ドイツ 1,2位
第10戦:ハンガリー 2,4位
第11戦:ベルギー 1,2位
第12戦:イタリア 1位
第13戦:ポルトガル 2位
第14戦:スペイン 1,3位
と、マクラーレンは年間10戦に勝ち、89年コンストラクターズ・チャンピオン(141点)に輝くと共に、
ドライバーズ・チャンピオンの座にアラン・プロスト(76点)が着き、2位にアイルトン・セナ(60点)がはいった。
 NA2年めの1990年、ホンダ・パワーはやはりマクラーレンに提供された。
ドライバーは、アラン・プロストがフェラーリに移り、セナの同僚にはゲルハルト・ベルガー(Gerhard Berger、オーストリア)がその名を連ねた。
このシーズンは、マクラーレンとフェラーリの激しい戦いとなった。
特にマクラーレンのセナ、フェラーリのプロストがライバル心をムキ出しにして、
サーキットで対決の火花を散らしたのだ。
この結果、マクラーレンのセナが6勝(78点)、フェラーリのプロストが5勝(73点)し、
辛うじてセナが、この年(2度め)のチャンピオンとなった。
コンストラクターズ部門は121点で、フェラーリの110点をマクラーレンがその軍門にくだし王者となった。
ホンダRA100Eは、このシーズン、仕様もバージョン6まで進化し、その出力も700馬力に達したといわれる。


89年シーズンのマクラーレン・コンビ。セナとプロスト。
1989年/カナダ・グランプリ公式プログラムより。


1989年、マクラーレンMP4/5を駆るアイルトン・セナ。
photo:同上。


ホンダRA109E・V10エンジン。

1991年、ホンダは2チームにパワーユニットを供給する態勢を採った。
V型10気筒のRA101Eをテイレル・チームに、
新開発のV型12気筒RA121E型をマクラーレン・チームに提供し、万全の構えを見せたのだ。
1990年のストーブリーグは、それまでになく熱く燃えた。
特に、巻き返しを図るフェラーリに、その勢いは激しく燃え盛った。
タイプ641と、91年仕様の642を早々からテストランの場に運び込み、
それこそ100%の仕上げめざして懸命のトライにはいったのである。
いっぽうマクラーレン・チームは、フェラーリとは逆に、
91年仕様のMP4/6が第1戦/アメリカ・グランプリ開始直前まで出来上がらず、
見守る者をヤキモキとさせ、
フェニックスにギリギリでマシンが運び込まれた。
しかしレース結果は皮肉にも、セナのマクラーレンに1〜2戦共軍配が上がり、
フェラーリは不振に泣いた。
そして第2戦のブラジルから、第3戦のサンマリノに至る1ヶ月の期間を利用して
両者(特にフェラーリ・サイド)は、さらにマシンの熟成に時間を費やしたのだ。
サンマリノの結果は、セナ、ベルガーのワン・ツーという形で終わった。
けっきょく、フェラーリ勢はこの年1勝も挙げることが出来ず、
マクラーレン・ホンダのセナに3度めの世界チャンピオンの座を許したのである。
こうして、ホンダ・パワーは、
1986年から1991年にかけて、
6年連続のコンストラクターズ・チャンピオンと5年連続のドライバーとのダブル・タイトルに輝いたのである。
翌1992年、ホンダは前年と同じ布陣(チーム、ドライバー)を敷いてシーズンに臨んだ。
が、ホンダは、この年の最終戦を持って、3回めの”休養”宣言をするのである。
8年後の2000年、ホンダはBARと共にF1戦線に蘇り、今日に至っているのだ。
**
最後に、92年に投入された”ホンダRA122E”のスペックを記してこの稿を終える。

型式:60度V型 12気筒・NA
総排気量:3497cc
最高出力:650馬力以上
全長:670mmx全幅:520mmx全高:530mm
重量:150kg
バルブ数/気筒:4/気筒
インジェクション・システム:ホンダPGM−FI
イグニッション・システム:ホンダPGMーIG

(第2回 了)

*エピローグ編(第3回)は、ホンダF1の原点となった
1.5リッター・横置きV12エンジン時代に遡って
お贈りいたします*