白井景 執筆集
原文のまま
(掲載の内容と他項目記事と一部ラップする部分があるのはご容赦ください)



3.

中央公論社
「GQ」japan 1993年11月号No.9

Car History 8
「レーシングカー、疾走の100年」
ドデオン車(蒸気車)からウイリアムズFW15ルノーV10まで



F1レースはいうまでもなく、われわれが一般車に乗ってドライビングする感覚とは、異次元の世界である。
それはマシンそのものが、速く走るためだけに作られた”マキシマム”なものであり、
ドライビング・テクニックもそれを乗りこなす”スーパーテクニック”が要求されるからである。
1レース終わったドライバーがゴール後「失神」するシーンをご覧になった方もいるだろう。
また、1レース終わったドライバーに聞くと、体重が2〜3kg必ず減る、ということからも、その肉体的疲労度は想像がつこうというものだ。
いっぽう、”走る広告塔”の代名詞まで生んだF1レースは、企業の絶好の広告の場でもある。
億の数字がつく金額を払っても、”ペイ”出来るとも聞く。
F1にこの、広告の”ロゴマーク”が付き出したのは1970年前後であろうか。
このことによって、F1レースの中味も大きく変容したといえる。
いい意味でも、悪い意味でも、現代のF1レースは”ショー・ビジネス化”してきているのだ。
だからといって、F1レースは見るだけのショーだとは断定は出来ない。
メーカーの技術的フィードバックも確実にあるからだ。
古くはDOHC機構、ディスク・ブレーキ、燃料噴射装置(インジェクション)、高性能タイヤ、ハイオクタン・ガソリン、
エンジンの振動軽減装置(バランサー)などが幅広く一般車に、そのテクノロジーを還元している.のだ。





ゴードン・ベネット・カップ」
トロフィー


Part1.
1894〜1939年

一時の、すさまじいばかりのブームは去ったとはいえ、「F1」の人気は、若者を中心に根強いものがある。
世界16カ国を転戦し、ドライバーのテクニックとマシンの性能を競う自動車レースの最高峰「フォーミュラ・ワン」
(Formula One)=規格1という意味=は、近年では日本も開催国のひとつであり、
スポンサー面でも、ジャパン・マネーが世界各国から頼りにされているという具合だ。
それほど、今やF1は、なじみの深いスポーツ・イベントのひとつになっているのである。
F1は、正式には「FIA Formula 1 World Championship」と総称される。
ドライバー部門とコンストラクター部門(製造者)の2タイトルで争われ、俗称F1グランプリと呼ばれている。
F1の歴史もさることながら、グランプリ(Grand Prix)=大賞=という名前の由来も古い。
それは、1906年(明治39年)まで遡ることになり、フランスはパリ〜ボルドー間で行なわれたレースに
初めて使われたと、歴史書は記している。

自動車レース「揺籃期」の、ひのき舞台になったフランス
自動車レースの起源は、1894年(明治27年)7月22日に行なわれた「パリ〜ルーアン間」のラリーというのが、
今日では定説となっている。
もっとも、それ以前(1887年)にも新聞社の主催で、フランスでラリーが行なわれはしたが、
車は集まるものの、スタート出来たのは蒸気車1台だった、という史実も見受けられる。
前出のパリ〜ルーアン間ラリーも、ル・プティ・ジュルナール新聞社の主催によるものだ。
パリ郊外のポルト・マイヨーをスタート地点とし、20台の車が一斉に140km先のゴール地点、ルーアンを目指した。
”コンクール・ド・ヴォワチュール・サン・シュヴォー”(馬なし馬車による競争)と名付けられた。
このラリーの出場車20台の内訳は、12台がガソリン自動車、残りがドデオンなどの蒸気車というものだった。
最初にゴールインしたのは、平均18.6km/hのスピードを誇るドデオン車だったが、
この車には、メカニックも同乗していたという理由で2位に。
1位には、約17km/hのプジョーとパナール・ルパソールが同順で選ばれた。
(一説には、パナール・ルパソールが単独1位で賞金200ポンドを受け取ったという話もある)
いずれにしろ、パリ〜ルーアン間ラリー終了後の夕食会で、自然発生的に「フランス自動車クラブ」(ACF)が誕生し、
以後の自動車スポーツ史で、フランスが大きな力を持つよりどころとなった。
リーダー格はドデオン伯爵であった。
そして、その年の11月、ACFは委員会を開き、翌1895年6月に第1回の”都市間レース”を開催することを決めている。
このようにして、1895年6月11日、パリのエトワール広場に集結した車は、一列縦隊でスタート地点のベルサイユ宮殿へ向かった。
いうなれば、世界初の本格レースである。
「第1回パリ〜ボルドー・レース」の出走車は13台のガソリン車、6台の蒸気車、1台の電気自動車、2台の2輪車であった。
各車は、2台間隔で、一路ボルドーを目指し、アクセルを加速していった。
そして、総走行距離1170kmを48時間48分で走破し、最初にゴール(マヨー門)へ飛び込んだのは、
パナール車に乗るルパソールだった。
が、規則で2座席の車には優勝資格がないとの理由で、栄光の座はプジョーに乗る、ケヒランのものとなった。
ルパソールの車は、ヘッドライトのトラブルの中、24km/hのスピードで夜間走行中、家屋に突っ込む。
態勢を立て直してのゴールインだったために、その悔しさはかなりのものだったろう。
1898年からは、パナール、プジョーに伍してルノーも加わり、
フランスを中心に、いわゆる市街地レースは盛り上がりを見せていった。
1900年には、ビッグイベントの「ゴードン・ベネット・レース」も行なわれた。
が、その3年後の「パリ〜マドリッド・レース」で惨事が起こり(マルセル・ルノー選手、コースアウト後病院で死亡)、シティ・レースは禁止となる。


1906年、最初のグランプリ・レース。
スタートを待つシーズとルノー。

photo:Renault

第1回グランプリ開催と1910年”ボアロ英雄伝”
「グランプリ」と名付けられた世界最初の自動車レースは、1906年6月26日に行なわれた「(ACF)フランス・グランプリ」であった。
と言っても、この第1回グランプリ当時は、現在のF1レースのようにスプリントのものではなく、
2日間にわたり、合計770マイル(約1240km)を走るというものであった。車両の重量規定は1000kgであった。
エントリーは計35台。
参加国はフランス、イタリア、ドイツの3国で、実際に出場したのは28台。
コースは、ル・マン近郊の公道を閉鎖して作ったクローズド・コースで、本格的なものであった。
出場車種はフィアット、ルノー、デートリッヒ、クレマン・バヤール、オッチキス、パナール、ブラジア、メルセデス、
イタラ、ダラッラなど、当時としては最高峰のマシン群であった。
第1日めのスタートは午前6時。
1分半の間隔で各車はスタートしていった。
午前11時45分過ぎ、ルノーに乗るフランソワ・シーズ(Francois Szisz)が2位のマシンを25分も離してフィニシュ。
記録によるとこの日は猛暑で、タイヤなどのトラブルに各車は悩まされたという。
ともあれ、第2日のスタートは、1日めの優勝者シーズの記録から、午前5時45分30秒にスタート....。
こんな具合に、全出走車17台が順番に、その姿を消していった。
前日の走行で、相当に荒れた路面に悩まされた出走車の中にあって、シーズも後半、リヤ・スプリング折損の憂きめに遭う。
しかし、彼はこれを克服、12時15分にゴールインし、優勝した。
シーズの平均スピードは実に62.97マイル(101.34km/h)で、2位はナザロ(フィアット)、3位にクレマン(クレマン・バヤール)がはいった。
完走車11台はすべてガソリン車で、優勝のルノーは直列4気筒12.8リッター。
最大排気量車は、パナールの18.25リッターであった。
こうして第1回グランプリは終了した。
歴史に残る第1回の優勝車はフランス製。
そして翌年の第2回はイタリア製(ナッツアーロ)、第3回はドイツ製(メルセデス・ベンツ)と、その勢力は拮抗していった。
話は少し飛ぶが、1912年と13年のフランス・グランプリを連続制覇したプジョーのジョルジュ・ボアロ(Georges Boillot)選手は、フランスの国民的英雄とあおがれた。
彼は、3年連続勝利の偉業をかけ、翌14年7月3日の同グランプリ(リヨン)に臨んだ。
しかし、強力ワークス(メーカー参加/ファクトリーともいう)・チームのメルセデスに1〜3位を独占され、
ボアロは終盤トップに追いつきながらも、マシン・トラブルで無念のリタイアを喫してしまう。
余談ながら、このボアロ選手は、同年8月3日の独仏宣戦布告と共に始まる第1次世界大戦の際、
フランス空軍に入隊し、パトロール中、ドイツ軍機に撃ち落とされ、その命を落としている。1915年のことであった。
第1次世界大戦は、1918年に終わりを告げ、3年後の21年にグランプリは再開される。
その時の優勝車がアメリカ車(デューゼンバーグ)だったのも、ボアロの悲劇を含め、
第1次世界大戦がもたらしたドラマとして、なにか因縁めいたものを感じさせる。
アメリカ車の勝利はまた、これ以降なく、56年後の1967年(ベルギー・グランプリ/イーグル・ウエスレーク)まで
待たねばならなかったわけで、どれほど貴重なものだったかが分かる。
いっぽう、それまでグランプリといえばフランスと相場は決まっていたが、この年(1921年)からはイタリア(23年)、スペイン(同)、ベルギー(25年)、
トリポリ(イタリア/同)、イギリス(26年)、ドイツ(同)、モナコ(29年)などで相次いで開催されていくことになる。
出場メーカーも、それまでのフィアット、プジョーなどに代わってアルファロメオ、サンビーム、ブガッティなどが勢いをつけてきていた。
メカニズム面では、1.5リッターの時代(1926〜27年)にはスーパーチャージャー(過給器)やアルミ・ピストン、
高性能タイヤなど、技術的進歩は著しいものがあった。


左/フランソワ・シーズ 右/ジョルジュ・ボアロ
photo:T.A.S.O.Mathieson Collection
(The Encyclopaedia of MotorSport)


ナショナリズムの台頭とモンスターマシンの激突
1930年代は第2次世界大戦のキナ臭い匂いと、ナショナリズムに覆われた時代であった。
グランプリの世界も、こんな状況に否応なしに影響されるようになっていた。
この時代の主役を担ったのが、メルセデス・ベンツとアウトウニオン(ポルシェ社の、かつてのレーシング部門)の2巨頭であることは、異論のないところだろう。
事実、この2大ワークス・チームを核として、1934年(昭和9年)から1939年まで、
グランプリ界は揺れに揺れたのだ。
ナチス党のヒトラー総統は、国威発揚策として工業力を重視した。
その工業の中でも自動車産業に力を入れようと考えた。
この考え方は、イタリアのファシスト(党)、ムッソリーニに習ったものだ。
例えば、アルファロメオがグランプリに勝利を収め、世界にイタリアの工業力を誇示したのを大いに参考にしたと思われるのだ。
ヒトラーは、「国民車構想」を提唱しながら、いっぽうではさらに、「グランプリに貢献したメーカーに50万マルクを出す」と、
自動車メーカーを叱咤、鼓舞したのである。
こうして事実上、ベンツ社とアウトウニオンの両雄は、グランプリを舞台として総力戦を展開することになる。
1934年のレース規定は、ドライバー、燃料、冷却水、タイヤを除いた規定重量が750kg、ボディ幅は850mm以上というものであった。
つまり、排気量の制限はなかったわけである。
排気量の制限がないということは、言い換えれば、750kgの規定重量さえ満たしていれば、
どんな大排気量のエンジンでも載せられるということだ。
これは出力/重量比(パワー/ウエイト・レシオ)でも圧倒的に有利になる。
航空機技術をふんだんに採り入れられる2大メーカーにとって非常に有利な条件である。
事実、1932,33年の両年はアルファロメオ、ブガッティ、マセラーティなどが主役であったが、
このグランプリ戦線にベンツ、アウトウニオンが割ってはいり、やがて前者らを蹴散らしていくことになるのである。
ベンツの主力マシンは「W25」。
ハンス・ニーベル博士とマックス・ワグナーの設計によるもので、
当初はミッドシップ・レイアウトが考えられたが、けっきょくはフロント・エンジン方式に落ち着いたもの。
フレームは、縦置きの2本のチューブを主構成に、これにアルミの軽量ボディを載せている。
パワーユニットは、直列8気筒3360cc・DOHC機構で、各気筒4バルブの計32バルブ方式。
スーパーチャージャー付加で、354ps/5800rpm(タイプA)のマシンだ。
いっぽうアウトウニオンは、ミッドシップ・タイプで、フレームはベンツと基本的に同じ。
エンジンは、V型16気筒4300cc・DOHCで295ps/5500rpmのものを用いた。
このマシンは、ポルシェ博士の影響を大きく受けており、「P.ヴァーゲン」と呼ばれた。
この強力2チームが出場した1934年は、しかし大方の予想に反してマシン・トラブルに泣かされ、
けっきょく、優勝は2チーム合わせ、4グランプリしか果たせなかった。

(中略:パワー/ウエイト・レシオの関係およびベンツの地肌削りの部分=やぶにらみコラム参照)

翌1935年は、出力に勝るベンツ・チームの圧勝となり、ルドルフ・カラチオラが6グランプリを制した。
残り1グランプリ(ドイツ)をアルファロメオに乗る、タッツィオ・ヌボラーリに譲るだけの勢いであった。
ベンツとアウトウニオン、2チームのマシン開発に賭ける情熱は異常なほどで、次々と出力を増し
(ベンツ:4740cc、494ps/5800rpm、アウトウニオン:6010cc、520ps/5000rpm)、
1936年は、ベルント・ローゼマイヤーがアウトウニオンで5勝、カラチオラがベンツで2勝という結果を示した。
この年の9月、グランプリの主催者は、「翌1937年から排気量は3リッターとする」と、
年々マンモス化する排気量に歯止めをかける旨の発表を行なう。
が、その年は各チーム共マシン開発が間に合わず、けっきょく、元の750kg規定のまま行なわれた。



アルファロメオP3で、ベンツ、アウトウニオン勢のモンスター群に
果敢な戦いを挑んだタッツィオ・ヌボラーリ。

1935年7月28日のドイツ・グランプリで、ヌボラーリのP3は、
グリッド後方からダッシュ! 1周終わった時点で2位に着けた。
が、その後、大パワーを誇るベンツ、アウトウニオン勢に蹴落と
され、後方に順位を落としたものの、すさまじい追い上げを敢行。
根性と秀逸なテクニックで、前者を次々に追い抜き、最後に笑
ったのだ。


1937年の、ベンツ・グランプリ・マシンは「W125」と呼ばれた。
9メイン・ベアリング採用の直列8気筒5660ccエンジンだが、
ニッケルクローム・モリブデン鋼を多用したフレームに搭載。
さらに、サスペンションは前ダブルウイッシュボーン、コイルスプリング、
後ドデオンアクスルを採用したものであった。
出力は646ps/5800rpm(後期型)で、最高速は実に380km/hをマークしたと言われている。
恐るべき、このマシンの設計者はルドルフ・ウーレンハウトで、
彼自身もテスト中、W125のステアリングを握ったということだ。
いずれにしろ、戦前、史上最強のマシンと呼ばれたW125は、1937年の実戦でも5勝を挙げる。
1938年、排気量は3リッターとなり、ベンツはニューマシンの「W154」を投入。
いっぽう、3リッターでは勝てないと見て取ったイタリア勢は、
1939年の、地元トリポリ・グランプリの規定を1.5リッターに変更。
それにもかかわらず、急造マシン「W165」に乗ったヘルマン・ランクとカラチオラは1〜2位を独占し、
王者ぶりを見せつけることになる。
このトリポリ・グランプリから3ヶ月後に第2次世界大戦が勃発。
戦前の自動車レース史は、車好きが集まってのクラブ的なイベントから始まり、
ついには軍事力へ転化されたナショナリズムの対決に至る。
1940年前後はつまり、レースどころではなくなってしまったのだ。
明から暗への、激しい移り変わりの時代でもあった。


上:ルドルフ・カラチオラとベンツW25。
下:ヘルマン・ランクの駆るW125がピットイン。タイヤ交換と
燃料補給をするチーム・クルー。



Part2.
1950〜1993

第2次世界大戦後、F1と名を変えたグランプリ
モータースポーツの再開は、第2次世界大戦後の人々の心を癒し、元気づける役割を担ったのではないだろうか?
事実、1946年、今日の自動車スポーツの礎となる統轄団体・国際自動車連盟(FIA・本部パリ)が設立され、
排気量区分によってF1,F2,F3のカテゴリーが確立されたのだ。
つまり、戦後のグランプリ・レースは、F1で行なわれることになったわけである。
その記念すべき第1回グランプリは1950年5月13日、イギリスはシルバーストン・サーキットで開催された。
1周4.7kmのコースを70周・329kmで競うこのレースには全部で21台が参加。
結果は、戦前からのマシン、アルファロメオ・ティポ158に乗るジュゼッペ・ファリナが勝利をものにする。
この年、全7戦を戦い抜いて初代チャンピオンとなったのは、第1戦の勝者ファリナ。
2位も、アルファロメオのジュアン・マヌエル・ファンジオであった。
他の出場車は、フェラーリ、マセラーティ、バンウォールなどだったが、
これらのほとんどが、戦前からの流用車であった。
このように始まった、F1によるグランプリ・レース。
第2回は、翌1951年5月27日のスイス・グランプリを第1戦とし、スペインの最終戦まで全8戦で行なわれ、
ファンジオが総得点31でチャンピオンとなった。
しかし、彼に栄光をもたらしたアルファロメオは、この年を最後に、F1界から一時、姿を消すこととなる。
こういった中で台頭してきたのがフェラーリ。
ティポ500に乗るアルベルト・アスカリが1952,53年の連続チャンピオンに輝いた。
戦前の雄、メルセデス・ベンツがグランプリ戦線に復帰したのは1954年のことであった。
この年の規制は、排気量2.5リッター。
ベンツはW196を引っさげての再登場であった。
”スリーポインテッドスター”(陸、海、空を表すベンツのシンボルマーク)も誇らしげに、
シルバーアローの再登場は、F1界に畏敬をもって迎えられたのだ。
ベンツ・チームは、マセラーティ・チームから移籍したファンジオの手で
第3戦・フランスから勝ち始め、2位に17ポイントの差をつけ
堂々の勝利をつかみ取る。
まざまざと見せつけたベンツの底力ではあったが、
そのベンツに魔の手がしのび寄っていたとは、誰も知る由がなかった。
翌1955年のル・マン24時間レース(スポーツカーによる耐久レース)で、
1台のワークス・ベンツが観客席に突っ込み、大惨事を引き起こしてしまった。
このため、ル・マンのレースはもちろん、F1そのものからも、手を引かざるを得なくなってしまったのだ。
ベンツ・チームのあっけない幕切れであった。


ベンツW196とファンジオ。
「シルバーアロー」の名のごとく疾走、
瞬く間に1954年のチャンピオンカーと
なったが、消えていくのも早かった。



ホンダが、誰もが驚くマシンで挑戦
1956年は、フェラーリに再度移籍したファンジオがマセラーティを打ち破り、3年連続のチャンピオンを獲得している。
2年後の58年、マセラーティがワークス活動を停止。
また、この年からメーカーのためのコンストラクターズ・チャンピオンシップが制定され、
イギリスのバンウォールが初代チャンピオンになる。
1959年、それまでフロント・エンジンが主流だったF1界に異端児が現れた。
町工場から生まれたクーパーがそれである。
ジョン父子が開発した同マシンは、クライマックス・エンジンをミッドマウントしたものだった。
それ以後、レーシングカーの主流となるレイアウトを採用したこのマシンで、
ジャック・ブラバムとスターリング・モスが乗り、59年と60年、いずれもジャック・ブラバムがチャンピオンとなっている(モスは3位)。
コンストラクターズのタイトルはいうまでもなくクーパーが取った。
また、この後、重量配分の面で、操縦安定性に優れたミッドシップ方式を、
各チームが競って開発していったのは言うまでもない。
1962年、ロータスは革新的な技術をF1マシンに投入した。
それは、ミッドシップ同様、現代のマシンに踏襲されることになったモノコック・フレームの開発である。
それまでシャシーはスペース・フレーム(パイプの組み合わせ)と大方の相場は決まっていた。
チーム・ロータスの主宰者、コーリン・チャップマンはこの伝統をみごとに打破したのである。
モノコック(バスタブ・タイプ)ロータス25は、ジム・クラークのドライビングで
この年ランキング2位、63年は7勝してドライバー、コンストラクター両部門を制覇している。


ロータス25コベントリー・クライマックスの
シートに納まるジム・クラーク。
1962年ベルギー・グランプリ出場時。



1964年、こんなF1界に日本のホンダがデビューする。
純白のボディに日の丸をあしらった、
ひときわ目立つボディシェルとユニークなサスペンションに支えられたパワーユットに、
お披露目の舞台となったニュルブルクリンクに集まった関係者は驚いた。
なんと60度V型12気筒1500ccエンジンが、セミモノコック・シャシーに
”横置き”にマウントされていたのだ。
これまでには考えられないレイアウトであった。
RA271E型と呼ばれた、そのエンジンは220ps/1万500rpmの出力を持ち、
525kgの車体を最高速300km/h以上まで加速させた。
この1.5リッター・ホンダF1は、翌65年フル出場し、
最終戦のメキシコ・グランプリに、リッチー・ギンサーの手で優勝(RA272)という
快挙を成し遂げている。
もちろん、日本車初のグランプリ制覇である。
1966年からは、5年間続いた1.5リッターに別れを告げ、規則は3リッターに移行。
その理由は、小排気量車だと、パワーを得るため必然的に多気筒、多段ミッションとなる。
そのため、パワーバンド(出力幅)も狭くなり、危険性が増すとのスポーツ委員会の見解であった。
ホンダは引き続いてF1戦線にニューマシンを投入する。
タイプRA273がそれだ。
例のV12エンジンは、オーソドックスな縦型へと変わり、サスペンションも一般的なものとなっていた。
ホンダの3リッターF1は、その重過ぎる車重(デビュー時740kg)のために勝てなかった。
翌1967年、RA273はローラの治具を使って大手術が施され、実に610kgの身軽さに変身した。
そして、同年9月10日のイタリア・グランプリ(モンツァ)に、名手ジョン・サーティーズのドライビングで、
0.2秒差の劇的な勝利を挙げている。
このマシンのタイプ名はRA300。
出力も420ps/1万1500rpmと、パワーアップが図られていた。
1968年、天才ドライバーとうたわれたジム・クラークが、ホッケンハイムのF2レーデで命を落としている。
このニュースは、電撃的に世界中に流され、F1ファンに、言いようのないショックを与えた。
ところで、ダウンフォース(接地圧)を得るため、
リヤに巨大なウイング(翼)をつけたF1マシンが登場してきたのもこの頃だ。
ことに1969年は、シーズン中、この巨大なウイングがそこかしこで見られ、目を奪われた。
しかし、このウイングも折損で重大事故が起こり、やがて禁止となっていく。

技術革新が進み、新しいアイデアが続々導入される
そうは言いながらも、巨大なリヤウイングによって得られる強力なダウンフォースの威力に、
各チームは虜になっていた。
あるいは、巨大ウイングに代わる”武器”探しに、血眼になっていたと言ってもいい。
やがて、その決定版として登場してきたのが、1970年のロータス72である。
タイプ72は、完全なウエッジシェイプ(刃形とでも表現すればいいか?)のスタイルを持っていた。
ラジエターはサイドに置かれ、空力特性と重心を重視した設計となっていた。
このマシンに乗ったヨッヘン・リントは5勝を挙げ、王者となっている。
ウエッジシェイプ・ロータス72の出現は、それまでの”葉巻型”スタイルカーの終焉をも意味することとなった。
タイプ72は、それほど衝撃的なマシンだったのだ。
このマシンは、1972年にも、エマーソン・フィッティパルディをチャンピオンとさせている。
各チームは、今回もまた”右にならえ”とばかりに、この技術革新を追いかけた。
その中の典型的な成功例は、74年のマクラーレンM23(E.フィッティパルディ)と
75年のフェラーリ312T(ニキ・ラウダ)ということになろう。
技術革新に意欲的なロータスは1977年、またもや先鋭的なマシンをF1戦線に送り込んだ。
タイプ78がそれだ。
これはサイドポンツーン下部のスカートにブラシュを設け、
サイドポンツーン内をいわば密封状態とし、空気を一気に排出してベンチュリー効果
(グランドエフェクト=ダウンフォースをより増す)を狙ったものである。
これはズバリ的中。
マリオ・アンドレッティは、タイプ78で4回優勝(ランキング3位)し、さらに発展させたタイプ79で、
1978年には年間チャンピオンにもなっている。
ベンチュリー効果が絶大であることを知った他チームはまた、これを追いかけ、
ウイリアムズ・チームが傑作マシン、タイプ07を登場させる。
タイプ07は1979年・3位、80年にはアラン・ジョーンズでチャンピオンにもなった。
「07」は、ベンチュリーカーの申し子のような存在で、ウイングカーとも呼ばれた。
しかし、その圧倒的ダウンフォース故に、ドライバーの肉体疲労も大きく、規則で禁止となり、姿を消していった。


写真説明:上/ウイリアムズFW15とアラン・プロスト
右端上/ホンダRA271,下/乱立するウイングカー
右から2番め中/ティレルP34・6輪カー
左から2番め上/ロータス72、下/ウイリアムズ11Bホンダ
左端中/ブラバムBT46Bファンカー



吹き荒れるターボパワー旋風
強力なパワーを得るため、ウイングカーの代わりに期待されたのがターボ・エンジンであった。
ターボの開発は、ルノーが1977年に1.5リッターV6で、すでに先駆的存在となっていた。
が、スポーツカーの名門ポルシェでも、1982年からF1用エンジンをTAGで開発していた。
同年末にポルシェとマクラーレンとの間で技術協力が結ばれ、ここにマクラーレンMP4/1 TAG・TTE・PO1 V6マシンが誕生する。
いっぽう、1968年に”休止宣言”をしていた日本のホンダが、
1983年のスピリット201/163EWで、15年ぶりにF1復帰を果たす。
ホンダのF1復帰は、それこそ世界中のF1ファンが待ち望んでいたものであったが、
その期待に、ターボ・エンジンの163EW・V6エンジンで臨んだというわけだ。
1984年、ホンダのターボV6(RA164E)が、ウイリアムズFW09に搭載される。
マクラーレンはもちろん、ポルシェ製だ。
1986年には、マクラーレン・ポルシェとウイリアムズ・ホンダの一騎打ちとなり、
ウイリアムズ・チームのナイジェル・マンセルが5勝、同僚のネルソン・ピケが4勝で、
コンストラクター部門の優勝をかっさらう。
が、ドライバー部門は、マクラーレンで4勝を挙げたアラン・プロストのものとなった。
ちなみに、この時の(有効)得点はプロスト72,マンセル70,ピケ69というきわどいものであった。
翌1987年、ホンダはこの年からRA167E型をウイリアムズ、ロータス両チームにも供給する。
日本の中嶋悟選手もロータス入りして、これをドライブした。
この年、ウイリアムズとホンダは、全16戦のうち実に11勝を挙げ、王者となる。
同年はまた、鈴鹿サーキットで10年ぶりに日本グランプリ(F1としては、同サーキット初)が開催された、記念すべき年でもあった。
1988年は、ロータスからマクラーレンへ移籍したアイルトン・セナが8勝してチャンピオンとなり、
さらに同僚となったプロストが7勝と、
ふたりで15勝(イタリアだけを逃す)の、前人未踏の記録を樹立した年だ。
ホンダ(エンジン搭載の)のマシンは、パワーだけでなく、ドライバビリティも重視した設計で、
この面でも他車を寄せつけない魅力を持っていた。
しかしこの年、ターボの時代は終焉を遂げる。
ちなみに、鈴木亜久里選手がラルース・チームからデビュー(日本グランプリ)した年も88年であった。
***
1989年からは、現在行なわれているNA(ノーマル・アスピレーション=自然吸気)規定となる。
ターボ、ロータリー、ガス・タービンなどの使用が一切禁止となり、
併せて気筒数も12気筒以下と改められる。
NA3.5リッターになったことで当初、ラップタイム(周回タイム)も相当落ちるだろうと考えられていた。
しかし予想に反し、ターボ時代の記録を塗り変えてしまったのだから、分からないものである。
レーシングカー、とりわけフォーミュラカーは、
逆に言うと、それだけトータル・バランスが重要なアイテムということになるのであろうか。
NAになってからのF1は、中嶋選手への期待と、それに応える活躍。日本グランプリの開催。
併せてテレビ中継などがミックスされ、
若者を中心とした空前の”F1ブーム”になったことは記憶に新しい。
またいっぽう、熾烈を極めるセナ対プロストの対決。
驚異のホンダV12パワーの炸裂とヤマハの参戦。
片山右京選手の挑戦など、数え上げたら切りがないほど話題が多い。
F1になって43年。
その間、名マシン、名ドライバーで幾多の名ドラマを展開してきた栄光のグランプリ・レースは、
これからもますます華やかに受け継がれていくと思われる。
F1レースをより一層楽しむためには、
ドライバーの安全性に神経を使っていかなくてはならないのは当然である。
が、マシンが発達し過ぎてか、
ドライバーの伎両にあまり左右されずに勝負が決まってしまう、最近の傾向を改めることも、
F1を面白くするための、重要な課題になっているのではないだろうか。

(了)

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2002/6/18 写真1点削除