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海外編
(overseas division)

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F1レギュレーションの変遷


モータースポーツの歴史{international}は、国内でも同様だが、草創期からの歴史をひもとく作業は、いうまでもなく困難を極める。しかしながら、「モノローグ」、「postscript」にも記したが、新世紀を迎えた今こそ、20世紀にモータースポーツがもたらしたものを、すこし細かく見直していく作業も必要{21世紀に引き継ぐためにも}と考え、ここではあえて年表の形でまとめてみることにした。が、第2次世界大戦以前の歴史はショートスト−リーの項にまかせて、名実共に”GRAND PRIX”が復活した1950年前後からはじめよう。                                                                  2001/1/22 



1946年{昭和21年}
 現在の自動車スポーツの基盤となる統轄団体・国際自動車連盟{FIA}が設立され、本部はパリに置かれた。カテゴリーは排気量によってF1,F2,F3の3ランクとなり、グランプリ・
レースはF1で行なわれることとなった。

1950年
 記念すべき戦後の第1回グランプリ・レースは5月13日、イギリスのシルバーストーン・サーキットでジョージ6世陛下臨席のもと開催された。F1のレギュレーションは、過給器なしが4500cc、過給器付きが1500ccである。出場車は全部で21台。優勝者は、戦前からのマシン、アルファロメオ・ティポ(タイプ)158を操ったジュゼッペ・ファリーナであった。そして全7戦を戦い抜いて初代ドライバーズ・チャンピオンとなったのもファリーナ
(カット左)であった。アルファロメオ以外のマシンではフェラーリ、マセラーティ、バンウォールなどがあったが、いづれも原型は戦前のものであった。
illustration:「Marlboro Grand Prix Guide1950−1989」
1951年
 5月21日のスイス・グランプリが第1戦。前年2位で、同じくアルファに乗るジュアン・マニュエル・ファンジオが優勝し、残る2戦の優勝を含めトータル37点、有効得点31点を挙げチャンピオンとなった。2位は4500ccフェラーリ375(3勝)のアルベルト・アスカリ(2勝)で、ファリーナは4位であった。だが、2年連続の勝利をもたらしたアルファロメオはこの年を最後にいったん、グランプリから姿を消すことになる。

1952〜1953年
グランプリ・レースが過度的なものであることを、この年と翌53年が証明している。というのは出場車が揃ってF2マシン(2000cc)を用意したからである。
フェラーリ(500)、マセラーティ、クーパー、ゴルディーニなどがそれである。フェラーリのエンジンは直列4気筒、マセラーティは直6,クーパー(BMW)、ゴルディーニは直4であった。が、総合力ではフェラーリに軍配が上がり、タイプ500に乗るアルベルト・アスカリ
(写真右)が2年連続のドライバーズ・チャンピオンとなっている。マセラーティは、53年はマニュエル・ファンジオがステアリングを握り、最終戦のイタリアでフェラーリをくだして優勝、またフェラーリ・チームに新加入したマイク・ホーソンは、53年のフランス・グランプリでファンジオと息詰まる熱戦を展開し、優勝している。

1954年
F1のレギュレーションがこの年から2500ccに変わった。第4戦のフランス・グランプリに、戦前の雄ベンツがニューマシンの「W196」をひっ下げて、しかも第1戦からマセラーティで勝ちっぱなしだったマニュエル・ファンジオをこれに乗せるという荒技をつかっての登場であった。
ただし、この時のW196のボディはスポーツカー・シェイプで、その後、葉巻型の「シルバーアロー」W196に変わった。
それはともかく、ノーズに付けられた”スリーポインテッドスター”(陸、海、空を表すベンツのシンボルマーク)も誇らしげに54年の
フランス、イギリス、ドイツ、スイス、イタリアの各グランプリを制し、ファンジオをドライバーズ・チャンピオンにしたのである。
この年、ランチア(イタリア)もフェラーリから移籍したアスカリがステアリングを握り後半戦に出場し、バンウオール(イギリス)も第2戦を走っている。



1954年、フランス・グランプリでのW196。

スイス・グランプリでのW196.dr.はM.ファンジオ。
ダイムラー・ベンツ博物館パブリシティより

1955年
メルセデス・ベンツとファンジオ、そしてこの年から加わったスターリング・モスのコンビはやはり強く、初戦のアルゼンチン、ベルギー、オランダ、イギリス、イタリアを勝ち、ファンジオが1位、モスが2位で終幕はした。が、実はこの年、ル・マン24時間レース(スポーツ/プロトタイプカーの耐久レース)にワークス参加していた1台のベンツが観客席に飛び込み、大惨事を引き起こしていたのだ。
このため、ベンツ・チームはル・マンのレースはもちろん、F1(ドイツ・グランプリ中止)を含めすべてのレースから撤退を余儀なくされた。
こうしてベンツ復帰はわずか2年で消えたのである。

1956年
ベンツの撤退で、F1レースは、フェラーリvsマセラーティの一騎打ちの様相を呈した。
フェラーリのエースは再度移籍したファンジオ、いっぽうマセラーティはモス。マシンは55年で活動を停止したランチアの技術をフェラーリに注入した「ランチア・フェラーリ」と3年めの「マセラーティ250F」。
結果はフェラーリ5勝、マセラーティ2勝でファンジオが3年連続の輝くチャンピオンとなった。

1957年


つづきは鋭意製作中
(申し訳ありません、もう少しお待ちください)