連載:伝説の名ドライバー列伝/第3回
駆け抜けた”天才” ジル・ビルニューブ
(Gilles Villeneuve)

天才という二文字は、まさに”ジル”のために存在した。そう言っても過言ではなかった彼の走り。まさに走るために生まれてきた、
夭逝ジル・ビルニューブの、F1での走りを振り返る。


photo:「1977年 日本グランプリ」配布資料より


伝説のドライバーは、言ってみればかなり多く存在する。しかしながら、今もって多年齢層に熱烈な支持を受け続けているドライバーは、そんなにはいない。
強烈な走りから「君はジルの走りを見たか」とまで熱狂者に言わしめる、ジル・ビルニューブの走りとはいったいどんなものだったのか?
(私見的な部分が、かなりはいったことをお許し願いたい)


度肝抜かれた驚異のルーキー

ジル・ビルニューブ(Gilles Villeneuve)は、1952年1月18日、カナダはケベック州に生まれた(フランス系カナダ人)。
ジル少年は、13歳の時スノーモービル・レースの世界にはいり、スポーツ感覚に人一倍優れていた彼は、21歳の時にはチャンピオンとなっていた。
やがてフォーミュラ・アトランチック・シリーズへと進んだジル・ビルニューブに、この時、早くも朗報が舞い込む。
ジルの走りを見ていた1976年世界チャンピオン、ジェームス・ハントが、彼の走りの才能を見い出したのである。
(もう少し詳しくいうと、ジルが上記シリーズ・レースを走り、優勝した時に、たまたま、このレースに招待されていたジェームス・ハントとアラン・ジョーンズのうち、特にハントが目をつけた、ということのようだ)
1977年、マクラーレン・チームのF1テストを受けたのち、幸運にも7月の第10戦イギリス・グランプリ/公式予選にまでジル・ビルニューブは進んだのだ。
そこでF1関係者は、度肝を抜かれた。なんと無名の選手がマクラーレンM23/DFVを操り、堂々9位で予選を通過したからである。
けっきょく決勝レースは11位完走(一時は7位を走る)に終わったが、アクティブかつダイナミックな走り方に誰もが驚いたのである。
F1ドライバーへの道は通常、F3シリーズ、あるいはF3000シリーズといった国際レースで好成績を残してから進む。
そんな中でジル・ビルニューブのF1デビューは、まさに異例中の異例といえよう。
それはともかく、この走りに特に惚れ込んだのがチーム・フェラーリであった。(写真下につづく)


フェラーリ312Tのコクピットでクルーと
打ち合わせをするG.ビルニューブ。

photo:東映配給「Pole Posision」プログラムより
(以下いづれも)



最終戦/日本グランプリに来日

4ヶ月後の10月始め、母国で行なわれる第16戦カナダ・グランプリ(モスポートパーク)にジル・ビルニューブは、フェラーリ・チームのナンバー2ドライバーとして「312T2」のコクピットに納まっていた。本人の話によれば「フェラーリ以外のチームからもオファーはあった」というのだが....。
それはともかく、彼は同年最終戦/’77日本グランプリ・レース(10月23日)に312T2と共にやってきた。
富士スピードウエイ右回り4.3kmコースで行なわれた同レースは、私も取材し、驚異のルーキーに、それまで言われてきたことと違う印象を受けたのを今でも思い出す。
取材仲間とも当時話したものだが、ジル・ビルニューブのこの時の走り(練習、予選、決勝を通して)は、はっきり言って、もたもた感と、これとは矛盾するが、実に粗っぽいというものであった。
この時点では、カウンターステアを当て巧みにコーナリングする、といった格好のいいものではとてもなかった、と思う。
ヨッヘン・リント、ロニー・ピーターソン、ジェームス・ハント等々、カウンターステアを使い、ダイナミックにコーナーをまわる猛者のテクニックを見せつけられてきたわれわれにも、一目でそれは未熟に見え、くどいが、ただ粗っぽかった印象が強い。
しかし、それも無理のない話であろう。F1デビュー戦からたった6戦め、しかも名門ワークス・フェラーリのハイパワー・マシンに乗ること2戦め、前戦のカナダではスピンが多かった反省点もあろうし、まったく初めてのコースでもある。あるいは、いいところを見せて期待に応えたい、との気負いもあったかも知れない。
しかしながら、その後1987年まで日本グランプリを凍結させることになる、あのアクシデントの1件さえ起こらなければ、そんな走り方など、まったく些細で、のちのちの笑い話で終わるはずであった。


1977年F1日本グランプリ・レース決勝グリッド
上位8台+19位〜(中略)



「フェラーリ312T2」宙を舞う

再度、日時を記す。
1977年(昭和52年)10月23日午後1時ジャスト。快晴の富士スピードウエイ、コース脇の信号灯が赤〜黄、そしてグリーンへと変わった。
23台のマシンが一斉に唸りを挙げ、ブラックマークを残しグリッドを後にした。
アクシデントは6周めに起こった。
第1コーナーへの突っ込みで、ジル・ビルニューブの真紅のフェラーリ312T2が、ロニー・ピーターソンの青・白色6輪ティレルP34/2に追突した形となったのだ。しかし、これがただの追突では終わらなかった。
フル回転する後輪タイヤに、これまたフル回転する前輪タイヤが接触したから、たまらない。
フェラーリ312T2は、宙を舞った。そしてボディは反転して、”立ち入り禁止区域”にもんどり打った。
そこに人さえいなければ、マシン同士の接触事故であるいは終わったかも知れない。
しかし現実には、不幸なことに、そこにかなりの観客が存在したのだ。
はいってはいけない、最高の見物席。
結果的に死者2名、重軽傷者9名を数えるに至った大惨事は、のちに観客整理責任が問われ、裁判まで発展した。

予選19位からのスタート〜事故。その意味は?

なぜ、事故の様子を記したか?
いってみれば、私も含め、日本グランプリ直前に言われていた”天才”イメージが、この事故を起こしたことで輪をかけて?マークをつけざるを得なくなったからである。
予選通過19位は、慣れていない、しかもハイパワーのマシン。これを操るコースもまったく初めての経験。初めてずくしだから、これらを差し引いて見なければジルに気の毒。
事故もそうだ。予見・予測ができないからこそ、不可抗力で起こるのだ。といった見方もあるかも知れない。
だが、F1ドライバー(パイロットと表現する人もいる)は、片方で「グレーデッド・ドライバー」といわれるくらい、世界で選りすぐられたプロフェショナル集団であることは、説明するのも野暮であろう。たとえ後方を走っていたとしても、グレーデッド・ドライバーなのであり、誇り高いプロ・ドライバーなのである。なにかが違う。どこか、それまでのF1ルーキーとは違う。そういう印象で、取材をひとまず終えた記者も事実多かった。
だがジル・ビルニューブの真価(評価)は、我々記者のの見方とはまったく違っていたようだ。
それが、やがて明らかになる日がくる。順を追って記そう。

母国カナダで初優勝/喜びの裏で

1978年、フェラーリ312T3とカルロス・ロイテマン(No.1ドライバー)、それにジル・ビルニューブのグランプリが始まった。
タイプ312T3のトータル・パフォーマンスはすばらしい出来映えであった。
ロイテマンの優勝は4回(1/28ブラジル、4/2西アメリカ、7/16イギリス、10/1東アメリカ)で、その他の入賞を合わせ総得点48・ランキング3位。
いっぽう、ジル・ビルニューブはというと、第1戦1/15アルゼンチンで早くもファステスト・ラップを叩き出すなどの活躍を見せ始め、第4戦/西アメリカでは予選2位から、永らくトップ・リーダーの位置を守っている。そして第6戦ベルギーでは4位となり初ポイントを挙げた。
第12戦オーストリア3位、第13戦オランダ6位を経て母国10/8カナダ・グランプリ(最終戦)を迎えた。グランプリ挑戦を続けるごとに、早さの証明であるフロント・ロウの回数も増していた。
モントリオールの、ジルを応援する数多い(地元)ファンも、シーズンの流れから好結果を期待していた。
が、まさか出走22台中(終止ダイナミックな走りをつづけ)、トップでゴール(完走12台)するとは、どれほどの人が思っていたか?そのまさかが、現実のものとなったのだ。熱狂する地元ファンにもみくちゃにされながら、しかしジルは、喜びの裏で冷めていた。
「粗っぽい、危険な走り」の喜ばしくない評判は広く世間、そして地元にも知れていた。
彼にすれば、いつの場合も、あくまでも(めいっぱい)アグレッシブな走りに徹していた、という思いが強い。、事実、言葉少なにそのように表現もしている。
いっぽうで、ハラハラドキドキもののジル・ビルニューブの、才能を買っていたのは御代エンツォ・フェラーリだったとも言われている。
いずれにしろジルのグランプリ・フル参戦初年度は終わった。
総得点17で、ランキング9位であった。



ランキング2位に!

いいにつけ、悪いにつけジル・ビルニューブの走りは、世界各国のモータースポーツ・ジャーナリスト達の、格好の話のネタになった。
が、ジルの走りの回数が重なるごとに、評価はかなり変わっていった。
それを裏付けたのが1979年シーズンであった。
この年のフェラーリ・ワークスは、ナンバー1がジョディ・シェクター、ナンバー2がジル・ビルニューブ。 
主力マシンは312T4で、戦闘力が高いウイングカーである。
結果的にジョディ・シェクターは、このマシンでチャンピオンに輝いている(総得点60,有効得点51)。
彼をよくサポートしたジル・ビルニューブは、

2/4:ブラジル:5位
3/3南アフリカ:優勝
4/8西アメリカ:優勝
7/1フランス:2位
8/12オーストリア:2位
9/9イタリア:2位
9/30カナダ:2位
10/7東アメリカ:優勝

自身で総得点53,有効得点47を挙げ、シェクターに次いで堂々2位に食い込んでいる。
コンストラクターズ・チャンピオンも、ふたりの活躍で113点となり、ウィリアムズの75点を振り切って王座に君臨した。
彼は、ファステスト・ラップを南アフリカ、西アメリカ、スペイン、ドイツ、オランダの各グランプリで叩き出し、ジル・ビルニューブ「恐るべし」の印象を植え付け始めたのである。
特に、7月1日のフランス・グランプリでのルネ・アルヌーとの息詰まるデッドヒートは、今でも語り草としてレーシング・ファンの間に伝わっている。
ジャン・ピエール・ジャブイーユとアルヌーのふたりが駆ったのはルノーRS・ターボ。ジルはこの2台のチームプレー間から、2位の座を自身で守ったのである。
守ったと言うと、消極的に聞こえるだろうが、彼の場合は違った。非常に積極的(アグレッシブ)に守った、といえばいいだろうか.....。
この日はジャブイーユとルノー・ターボの初勝利の日であると共に、また、ジルとアルヌーの死闘の日として記憶に残る1日となった。
だが、恐るべきターボ・パワーをジル自身が、やがて知ることになるのである。
余談だが、ジル・ビルニューブの性格を知るうえで参考になるようなことがこの年あった。それも記しておこう。
イタリア・グランプリでジョディとジルが1,2位(レース途中から編隊を組む形となった)でゴールを切った時のことである。まだ得点差でジルに、その可能性(チャンピオン)が残されている時だったが、ジルはチームのオーダーに従った行動を取った(上位を抜かない)。素直で従順......「この結果はごく自然」、ジルを直接知る人はこぞってそう言う。
しかし、だからといってジルは、単純にオーダーに従ったというわけではなさそうだ。つまりは、ジルにとって、2位を走っている時点で、(自身が考えた)逆転の可能性(このレースでジョディのチャンプが確定するのだが)の低さとチームのオーダー上から、ここは割り切ったと言えそうだ。言い換えれば”ドライ”、という表現も当てはまりそうである。
これを裏付けるように、この逸話には尾ヒレがつく。、レース後、フェラーリ・チームのエンジニア、マウロ・フォルギエリが感激してこう話した。「ジルのスポーツマンシップとチームに対するプロフェショナルな精神には感動した」と。が、これを聞いたジルは、こう言ったたともいわれる。「われわれを脅かしていたリジエ/DFVのジャック・ラフィーがリタイアした時、僕のポジションは2位だった。グレードなドライバーで、”フレンドリー”のジョディにつづいての2位なんだぜ、単純にそれで納得するさ」と。

”No.1”になったジル

翌1980年のフェラーリ・ワークス・マシンは改良型の312T5。
だが、フェラーリ陣営は前年と打って変わって低調なマシンに泣いた。312T5の「走安性」がどうにもこうにも定まらなかったのだ。
ジルは5位・2回、6位・2回入賞するのがやっとで、ランキング10位、ナンバー1のシェクターは5位が1回の19位で終わっている。
ちなみに、80年のチャンピオンはウイリアムズFW07(やはりウイングカー)に乗るアラン・ジョーンズである。
1981年は、やがて吹き荒れるターボ旋風の不気味な前年に当たった。
フェラーリも、80年の予選時にターボカーをトライし、この81年シーズンに本格的に投入した。
タイプ名は、それまでとガラリ変わり「126C」。
1500cc・V6エンジンにKKK製ツイン・ターボを装備している。
ハイパワーで、しかもV6のためコンパクトにシャシーに納まっている(自然吸気方式は水平対向12気筒)。
しかしエンジンの取りまわし部品などを含め、いかんせん重く、したがって燃費が悪い。
ジル・ビルニューブはこの年、ナンバー1となっており、新加入のデディエ・ピローニとグランプリを戦った。
そして、ジルの走りの伝説がここから始まった。
それは、第7戦スペイン・グランプリで十二分に発揮された。

(残念ながら、私は「モノローグ」の項でも記したが、1974年以降、いったんモーターレーシングの現場から離れている。1976年と1977年の「F1inJapan」(富士スピードウエイ)は、取材をしたが、以降1987年までF1の実戦現場には行つていない。したがって、その後のジルの走りについてはまったく見ることもなく、ジャーナリスト仲間、カメラマン等の話、資料、その他によって記すことになる。”テーマの走りという性格=重要性=からも今回は”あらかじめ、この事をお断りしておきたい)

生まれ出た「走りの伝説」

タイプ126Cのマシンは、重く燃費が悪いというに止まらなかった。
直線スピードこそ、ターボ・パワーにものをいわせて突っ走るが、コーナー、特にテクニカルな部分が重複するコースには弱点がモロに出る。幸運にも第6戦モナコ・グランプリを制したジルは、第7戦スペイン・グランプリ(6/21)にそのままの勢いで臨んだ。
舞台のハラマ・サーキットは、モナコとまったく同じ1周3.312kmのコース。モナコ同様、テクニカルなレイアウトだが、割と長い直線部と数多くのツイスティな部分とを組み合わせた、いわばトリッキーなコース。
モナコと同じく、ターボ・チャージド・フェラーリ126Cにとっては、不得手なサーキットには違いない。
しかし、こんなコースだからこそ、ジル・ビルニューブの真価が発揮されたというか、伝説の走りが見られたというか、とにかく「カウンターステア」のジル・ビルニューブが、十二分に印象付けられた1戦となったのである。
直線は、ターボ・パワーが勝った。しかしコーナーにはいると126はブレた。
80周・264.970kmのレースも、残り少なくなった。
トップはジル・ビルニューブ。追うはウイリアムズ/DFVのカルロス・ロイテマン、リジエ/マトラのジャック・ラフィット、マクラーレン/DFVのジョン・ワトソン、ロータス/DFVのE.デ・アンジェリスの4人。
あるカメラマンの目撃談によると、それでもコーナーのイン側はいつも開いて(開けて)いたという。
それが、抜きたいドライバーへの(まして、それがベテラン・ドライバーであればあるほど)、ジルのいつもの(少なくとも1〜2年間の)”礼儀”だというのだ。
そんなことが本当にあるのだろうか?私は一瞬聞き返したほどだ。
カメラマンの話はこうだ。
126Cのハンドリングは悪く、直線のギャップでも飛び跳ねていたという。それを修正するために、ステアリングを握る手は、絶えずクロスして見えたという。
直線でこうだから、コーナーでは推して知るべしだ。
暴れ馬を御すように、カウンターを当てコーナーをまわっていく。
こんな状態だったから、もし他車がインに割り込むチャンスがあったとしても二の足を踏んだのかも知れない。
だが、この日のジル・ビルニューブのドライビング(コーナリング)は、100%みごとにカウンターステアが決まっていたという。それも全コーナーに渡っていた。
それは、とてつもない、完璧なマシン・コントロール・テクニックだったということだ。
こうしてジルは、このハラマのレースを1時間46分35秒1(149.156km/h)のタイムで、一度も抜かれることもなく制して終わった。
こう見てくると(話を聞いていると)、粗っぽさばかりが脳裏に焼き付いていたジルとは、正直言って全然違う。
だからといって、ヨッヘン・リントやロニー・ピーターソンの超ダイナミックな(カウンターを当てた)走りとは、どこかが違う気がする。
そのカメラマンが言った。「少なくとも、あのレースの、あの走りはダイナミックな中にもマイルドさが出ていて、ベテランの風情があった。ジルはまさに天才だね」
ジル・ビルニューブの1981年シーズンは得点25の7位で終わった。

感動を与え続けてくれたジルに深く感謝!


だが、翌1982年、第4戦のサンマリノ・グランプリ(4/25)で、同僚のピローニがオーダーを無視(「STAY」のサインも無視)して、最終ラップでジルを抜き去り優勝、このことが両者のあいだに抜き差しならぬ感情を生んだという。
ジルにすれば、1979年に、ジョディ・シェクターの王者への道に一役買ったのと同様、こんどはジルのチャンピオンにピローニが同じことをすると信じていたのである。それがまた、オーダーという意味にジルはとっていた。
温厚でなっていたジルが激怒したという。
そして迎えた第5戦ベルギー・グランプリ(ゾルダー・サーキット)の公式予選日(5/8)。怨敵となったピローニのタイムを破るべく、アタックを開始したジルだが、全力で疾走する前にヨッヘン・マスのマーチ・フォードがいた。
1977年の日本グランプリ・レースを再現するようなシーンがそこに生まれた。ジル・ビルニューブのフェラーリは宙を舞って、その後地面に叩きつけられ、自身もコクピットから投げ出されてしまったのだ。
享年30歳の生涯であった。
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話は1979年に遡る。
この年の最終戦・東アメリカ・グランプリの予選第1日めのことである。
ワトキンスグレンのコースは、滝の中のような悪天候に見舞われていた。
誰もコースインしなかった。
しかしジルは、2種類のタイヤ・テストのため飛び出して行った。
ジルの後、何人かが続いた。だが、彼らはすぐにピットインした。
「とても走れる状態じゃないよ。すぐにコースアウトしちゃったよ」
ジルが戻ってきた。そしてこう言った。
「1万以上まわしてみたよ。タイヤはOKさ」
ジル・ビルニューブは東アメリカの決勝レースに勝った。
+++++
この縞を書き続けているうちに、分かったことを付記しておこう。
性格は、F1デビューの年は、温厚で素直、いつも笑顔で受け答えする青年だったと、いわれる。
したがって、文中にもよく出てくる”オーダー”に関しても、素直にそれを受け入れ、実行に移した。
だからこそ、チームメイトの違反は、裏切りに捕え、深く傷ついたのだといわれる。
また、後年は、チャンピオンの座に執念を燃やし、性格も変わっていた、というジャーナリストももいた。
それはともかく、ジル・ビルニューブの評価は、テクニック、人間性共に、今でもF1ジャーナリストのあいだで高く、ファンも”崇拝者”が多い。
それは、マシンがどんな状態にあっても、最高のものを引き出そうとする、真摯な努力の姿がドライビング・テクニックに現出され、
それが人々の共感を生んできたからではないかと思われる。
F1グランプリが低迷期にあった時期に、人々に感動を与えてくれたことに深く感謝したい。



67戦出走、優勝6回。