新連載:伝説の名ドライバー列伝/第1回
崇高の騎士 アイルトン・セナ
(Ayrton Senna)
忘れもしない1994年5月1日、イモラに散った不世出のドライバー、アイルトン・セナ。モータースポーツ・ファンならずとも、この天才ドライバーの名を知らぬ者はいない。世界中のファンに愛され、そして逝ったセナ。2001年F1グランプリが開幕し、セナの7回めのメモリアルが近づいたこの春に、彼の生涯を振り返る決心をようやくした。ジム・クラーク、ヨッヘン・リント、ロニー・ピーターソン、ジル・ビルニューブ・・・・きら星輝く、名ドライバーのなかでも、ひときわ輝く星でもあったアイルトン・セナ。「伝説の名ドライバー列伝」第1回は、セナの「流れ星」を追った。


Pioneer LDC 「F1 GRAND PRIX1991」より
カートからフォーミュラ・フォードへ

 1960年(昭和35年)3月21日、アイルトン・セナ・ダ・シルバ(Ayrton Senna da Silva)は父ミルトン、母ネイジのあいだの2番めの子供(長男)としてブラジル・サンパウロに生まれた。
 4歳の時、父から贈られたカートを乗りまわす。それが、セナのモーターレーシングへの道の第一歩であった。
 「好きこそものの上手なれ.」という言葉があるが、まさにセナがそうであった。カートでメキメキ腕を上げていった14歳(1974年)の時、サンパウロ・ジュニアに優勝、翌75年ブラジル選手権に2位。そして1979年、ポルトガルのエストリルで行なわれた世界カート選手権では総合2位にまでなっていた。
 1981年には、カートと共にフォーミュラ・フォード(FF)1600にもステップアップ、タウンゼント・トレンセン選手権・優勝、82年にはフォーミュラ・フォード2000で、ヨーロッパ・イギリス選手権・優勝と快進撃をつづけた。
 こうしてセナは、1983年にはフォーミュラ3へと進み、イギリス選手権でラルトRT3・トヨタに乗車、のちのグランプリ・ドライバー、マーチン・ブランドルと激しいつばぜり合いを演じ、その末に優勝(全20戦中、9連勝を含み12勝)を勝ち取っているのだ。

 トールマン・ハートでF1デビュー

 フォーミュラ3で選手権を争っていたその時期にセナは、実はF1を初ドライブ(1983年7月19日)している。しかもマシンはウイリアムズ。しかしセナのF1デビュー・シーズン(84年)でのマシンは、ロリー・バーンがデザインしたトールマンTG183B(現在のベネトンの前身)・ハートであった。
 トールマンを駆ったこの年、セナはモナコ・グランプリで早くも初入賞を果たす。豪雨の中のレースで、しかもファステスト・ラップを叩き出しながら、マクラーレン・TAGポルシェに乗ったアラン・プロストに次いでの2位入賞を果たしたのだ。3位を2回含むトータルポイント13で、セナは1984年ワールド・チャンピオンシップ9位となっている。
 F1に華々しいデビユーを飾ったセナは翌85年シーズンは、名門ロータス・チームからの出場となった。ルノー・チームからターボ・エンジンのサプライを受けていた同チームのマネージャー、ピーター・ウォア(第1回日本グランプリに出場している)から、強力にチーム入りを誘われたセナは、これを受諾、ロータス97T・ルノーのステアリングを握ったのである。
セナとロータス97Tのコンビは、初戦のブラジルこそリタイアしたものの、2戦めのポルトガル(エストリル)ではもののみごとにF1開花しているのである。ポールポジションを取ったセナは、決勝でもファステスト・ラップを叩き出す快調さで、彼自身F1・16戦めで初優勝を成し遂げたのだ(ロータスにとっては3年ぶり、しかも総帥コーリン・チャップマン亡きあとの初勝利でもあった)。「F1のセナ」記念すべき1戦であった。この年のセナは、ベルギーでも優勝し、都合1位・2回、2位・2回、3位・2回、ポールポジション7回の成績を残したのだ。トータル・ポイント38でチャンピオンシップは4位だった。
ロータス98TとルノーV6ターボのコンビは2年めを迎えた。その1986年の成績は、ポールポジション8回、優勝2回(スペイン、アメリカ)、2位・4回、3位・2回等で、総得点55の4位であった。

 日本のファンに初お目見え/1987年

 1986年はロータスがルノーを選んだように、マクラーレンはポルシェの、そしてウイリアムズはホンダの、それぞれV6ターボ・エンジンを選んでいた。まさにターボ戦争一幕めの年でもあった。こんな中にあってセナは、ルノーの非力さと信頼性に思い悩んでいた。反面、彼はシーズン中盤、ウイリアムズ搭載のホンダ・エンジンの威力に惚れ込んでいた。そこでチーム・ロータスの首脳陣にこれをアピール。結果、翌87年のロータスへのホンダ・エンジン供給を実現させたのである。ホンダ・パワーとのコンビネーションは、また日本のエース・ドライバー、中嶋悟とのコンビネ−ションをも意味していた。
 87年仕様のロータス99Tホンダには、実は最新兵器が装備されていたのである。「アクティブ・サスペンション」がそれである。82年から開発が進められてきた技術が花開こうとしていた。アクティブ・サスに関しては別途解説する予定だが、簡単にいえばコンピューター制御の画期的なサスペンション・システム。だが、革新技術の熟成には時間が必要だった。セナはそれでもモナコ、東アメリカの2勝を挙げ、トータル57点で選手権3位、中嶋は7点で11位に着けた。
1987年はまた、日本がシリーズ戦の1戦に組み込まれ、鈴鹿サーキットがその舞台(セナ2位/優勝ゲルハルト・ベルガー=フェラーリ)となった年でもあった。以後今日までこの図式がつづいているのは諸兄ご存じのとおりである。ここでセナとホンダ、日本のセナ・ファンとの絆が強くなったのである。
 翌1988年、ターボ・エンジン最後の年。セナはホンダ・エンジンと共にマクラーレンに移籍していた。同僚はその後好ライバルとなるアラン・プロストであった。
 MP4/4のしっかりしたシャシー/ボディ、パワフル(スーパー・ハイパワー)で信頼性高いエンジン、そしてこれを操る登り坂のドライバー。このトリオは全16戦のうち、イタリア(優勝フェラーリ/ベルガー)を落としたのみの、今でも語り草となっている15戦優勝の完璧な勝利であった。うちセナ8勝(有効得点90)、プロスト7勝(同87)で、セナは初のチャンピオンの座に着いたのだ。
ちなみに、同じくハイパワーのホンダ・エンジンを搭載したロータス・チームは、シャシー性能が著しく劣り、数回入賞するのがやっとであった。
                                 
 セナ・プロ対決ラウンド1.

 では、1988年のこの年から宿敵となったプロストとセナの1年の成績を見てみよう。
 第1戦/ブラジル  1位:プロスト セナ:失格  ポールポジション=セナ
 第2戦/サンマリノ 1位:セナ プロスト:2位        =セナ
 第3戦/モナコ   1位:プロスト セナ:リタイア      =セナ
 *写真の下につづく

photo:Marlboro McLaren International(1989)    
 

Pioneer LDC 「F-1 GRAND PRIX 1991」より
                       
McLaren 「typeMP4/5B HONDA」 
*写真の上からのつづき
第4戦/ メキシコ 1位:プロスト セナ:2位     ポールポジション=セナ
第5戦/
カナダ 1位:セナ プロスト:2位     =セナ
第6戦/東アメリカ 1位:セナ プロスト:2位  =セナ
第7戦/フランス 1位:プロスト セナ:2位  =プロスト
第8戦/イギリス 1位:セナ プロスト:ー  =ベルガー
第9戦/ドイツ/1位:セナ プロスト:2位   =セナ
第10戦/ハンガリー 1位:セナ プロスト:2位  =セナ
第11戦/ベルギー 1位:セナ プロスト:2位   =セナ
第12戦/イタリー 1位:ベルガー セナ&プロスト:共にリタイア  =セナ
第13戦/ポルトガル 1位:プロスト セナ:6位  =プロスト
第14戦/スペイン 1位:プロスト セナ:4位  =セナ
第15戦/日本 1位:セナ プロスト:2位  =セナ
第16戦/オーストラリア 1位:プロスト セナ:2位 =セナ

「破竹の勢い」ーこの形容詞どおり、この年のグランプリ・シリーズは、まさにマクラーレン・シャシー+ホンダ・エンジン、そしてふたりのスーパードライバーのためにあったようなものだった。そして、プロストとセナ、いやセナとプロストは、いかにも「ジョイント・ナンバーワン」の名にふさわしい戦いぶりをシーズン中、ファンに惜しみなく見せてくれ、全世界にF1ファンを確実に増やしたのだ。


アラン・プロストとアイルトン・セナ+マクラーレン・チームのメンバー(1988年)。
写真:Shell TMO


セナ・プロ対決ラウンド2.

鈴鹿サーキットのパドックで行なわれた「1988年日本グランプリ祝勝会」で、セナは本田宗一郎氏と固い握手をした。心なしか、その眼は潤んでいた。
振り返ってみれば、スタートで出遅れたセナが猛然と追い上げを敢行し、ついに先行するプロストを射程距離にとらえた。その時、天の恵みか、曇り空から雨が降ってきた。
ウェット・コースを得意とするセナは、27周め、直線でプロストと並び、そして1コーナーまでに抜き去って、そのままゴールに飛び込んだのだ。
劇的な勝利と、そして掴んだワールド・チャンピオンの座。感激にむせんだとしてもなんの不思議もないが、少なくとも勝利の大部分を占める信頼できるエンジンを提供してくれたホンダ、その総帥であり、F1の大理解者である本田宗一郎氏の温厚な人柄に接した時、感涙したのであろう。
こうして1989年も、セナとホンダ、マクラーレン・チームと同僚でありライバルでもあるプロストとの関係はつづいた。
一説では1300馬力を発生させた、ともいわれるターボ・エンジンから、レギュレーションの変更で一転して自然吸気方式(NA)になった1年め。ホンダはV10を選んだ。ルノーもV10,フェラーリは相変わらずのV12であった。
マクラーレンMP4/5ホンダV10を駆ったセナは、この年、ポールポジション13回、優勝6回で得点60。いっぽうプロストは、ポール2回、優勝4回で有効
得点76。着実な走りで2位を6回も取ったプロストがチャンピオンとなった。
翌1990年、前年とマシン(マクラーレンM4/5Bホンダ)、態勢共まったく変わらぬ陣容でグランプリに臨んだセナは、ポールポジション10回、優勝6回、2位・2回、3位・3回で得点78。2回めのワールド・チャンピオンに輝いた。
89年、90年とセナ、プロスト両者は共にチャンピオンの座を分けた。だが、ふたりのバトルはシーズンを通して激しさを増し、その結果、両車が接触してはじけ飛ぶシーンがあった。鈴鹿でも、その光景は見られたが、それはここでは触れまい。ふたりは、今となっては”真のライバル”そのものであった、ということで充分であろう。


パーティ会場で勝利を祝い合う本田宗一郎氏とアイルトン・セナ。
写真:1991 F1日本グランプリ・プログラムより


ホンダがV12エンジンを投入、しかし

1991年、ホンダはそれまでのV10からV12エンジンにスイッチ、マクラーレンはMP4/6へと進化した。
セナは、鈴鹿でこそ2位になったが、シーズンを通して7回の優勝で得点96を挙げ、文句なし、3度めのチャンピオンとなった。こう記すと万全の勝利と思われるかもしれないが、内実は開幕4連勝(ハイパワー・エンジンにものをいわせ)こそあったが、序々にウイリアムズのマシンに追い上げを食い、その座を脅かされていたのである。
92年、ホンダはさらに進化した(というよりも新設計の)V12エンジンを投入したが、MP4/7Aシャシーは、これを支え切れず、アクティブ・サスで固めたウイリアムズ・ルノーに苦杯を嘗めた(セナ/ランキング4位)。それでも、開幕5連勝とアッケなくセナの記録を塗り変え、6連勝に迫るウイリアムズ・ルノーのナイジェル・マンセルとセナのモナコ・グランプリでの死闘(テール・ツー・ノーズの戦い)は、セナの全力を尽くしたテクニックに支えられた勝利となっている。そして、この年の中盤、ホンダはワークスの、F1からの撤退を宣言することになる。
強力なホンダ・パワーから、一転、非力なフォードV8搭載マクラーレンMP4/8に乗らざるを得なくなった93年シーズンのセナ。だが、逆境に強いセナの真価発揮というべきだろう、1位・5回という離れ業でランキング2位(73点)となっているのは特筆に値する(鈴鹿では2位)。
1994年、セナはウイリアムズ・チームの一員となっていた。総帥フランク・ウイリアムズとの呼吸も合っていた。セナはウイリアムズFW16・ルノーを巧みに操り、初戦ブラジル・グランプリ、つづく岡山県・AIDAサーキット(パシフィック・グランプリ)とポールを取つづけながらも、いづれもリタイアとなった。
そして必勝を期して迎えた第3戦のサンマリノ・グランプリ。ここでも予選をトップで通過し、決勝を走ったセナだったのだが......
(第1回・完)

Shell


セナのF1レース、主だった記録
優勝回数:通算41回(史上2位)
チャンピオン獲得回数:3回(3位)
出走回数:161回(11位)
ポールポジション回数:65回(1位)
ファステストラップ回数:19回(8位)
生涯得点:614点(2位)
etc.


第2回は[F1の荒法師」の異名をとったナイジェル・マンセルを予定していますが、
採り上げて欲しいドライバーがいましたら下記まで、ご一報を!

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 白井 景
motorracingspecial@yahoo.co.jp

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