連載:伝説の名ドライバー列伝/第2回
「F1の荒法師」 ナイジェル・マンセル
(Nigel Mansell)


あらゆる意味で、ドラマチックな運命を背負った、F1史に比類のない
ドライバー。そのナイスガイ、ナイジェル・マンセルの
チャンプへの道程。

photo:Marlboro International


「窓拭きバイトで資金調達」
ナイジェル・アーネスト・ジェームズ・マンセル(Nigel Arnーest James Mansell)は、1954年8月8日、イギリスのアプトン・オン・セバーンに生まれた。
父親は大のカート好きで、ナイジェルもその影響を強く受けて育った。
14歳で、カートのジュニア選手権に、そして1976年にはフォーミュラ・フォード1600に駒を進めた。
この辺は、アイルトン・セナの進みかたと実に良く似ている。
それはともかく、マンセルは、この年、ホークDL2マシンでいくつかの勝利を納め、翌77年には50レースに出場し、うち20回も優勝しているのだ。
「不屈の男」マンセルの、逸話の始まりとして、こんなのがある。
イギリスは、ブランハッチのレースでクラッシュ・骨折し、ドクターから全治6ヶ月の宣告を受けたにもかかわらず、数週間後のレースに首にギブスをはめて、平然と出場してきたのである。
1978年、彼はフォーミュラ3に進む資金を作るため、売れる物はすべて売り払い、さらに窓拭きなどのアルバイトをして、マーチ783でこれに挑戦。
シルバーストーンのレースでは、なんとネルソン・ピケやデレック・ワーウィツク等をうち破って2位入賞を果たしている。
1979年、ユニパートF3チームから参戦、第2戦のスラクストンで2位、第3戦のシルバーストーンではアンドレア・デ・チェザリスを破って勝利を挙げているのだ。

ガソリン漏れのコクピットのなかで......
マンセルの走りに惹かれていた男がいた。チーム・ロータスの総帥コーリン・チャップマンである。
チャップマンは、まずマンセルにロータスのインスペクターの仕事を世話した。元々マンセルは、流体力学を専攻するエンジニアだったからである(23歳当時)。
翌1980年、ロータス・タイプ81のマシン開発中、ついこのクルマに乗れるチャンスが訪れた。それは第10戦オーストリア・グランプリ(オステルライヒリンク)であった。
ロータス81/DFVは、しかし彼にやさしくはなかった。
スタートを待つマンセルのマシンのコクピットに、信じられない話だが、燃料が漏れて進入してきていたのだ。
チーム・クルーの制止にもかかわらず、マンセルはスタートを切ってしまった。
だが、容赦なく進入してくるガソリンは、彼の身体に浸透し、かゆみが、そして痛みが走った。
そんな状況の中でもマンセルは走りに走り、13位まで順位を上げたが、41周め、人間より先にエンジンが悲鳴を上げてストップ。リタイアに終わった。
念願のF1初ポイントは、ベルギーのゾルダー・サーキットで挙げた。
ジル・ビルニューブと激しいつばぜり合いを演じての3位入賞であった。マンセルにとって、生涯忘れることができない一戦であったに違いない。ロータス・チーム2年めのことである。
また、アメリカ・グランプリ(デトロイト)で、マンセルはブルーノ・ジャコメリのアルファロメオに追突してしまった。後輪に乗り上げ、左腕をステアリングに挟むという大事故であった。
マンセルはこの後、1レースは欠場したものの、イギリス・グランプリには腕に炎症を起こしながらも復帰。地元のファンや関係者に大いに感銘を与えたという。いかにもマンセルらしい話である。

どこまでも「つきのない」マンセル
1985年、マンセルはウイリアムズ・チームに移籍した。
そして10月6日、ブランズハッチのヨーロッパ・グランプリでF1初優勝(FW10/ホンダ)を遂げている。
ロータス97T/ルノーに乗るセナ、ブラバムBT54/BMWのピケと激しいバトルを繰り広げ、ダートに車輪を落としながらもトップを守り切ったのである。
ブランズハッチは8年ぶりのイギリス人勝利に沸きに沸いた。
このレースを皮切りに快勝をつづけたマンセルは、得点31で世界選手権ランキング6位に着けている。
1986年は、マクラーレンのアラン・プロストとワールド・チャンピオンの座を賭けて、壮烈な戦いを繰り広げた。
ところが、最終戦オーストラリア・グランプリで、しかも51周めに左リヤタイヤ・バーストでリタイア。悔し涙にくれたのである(プロスト72点、マンセル70点)。
翌87年も、マンセルはつかみかけた王者の地位を寸前のところで逃がしてしまう。
チャンピオン争いは、同僚のネルソン・ピケを相手に行なわれた。
勝敗を分けたのは第15戦の日本グランプリ。
公式予選で、縁石に乗り上げスピン、マシン(ウイリアムズ11B・ホンダ)は宙を舞って、地面に叩きつけられたのだ。
マンセルは脊髄を激しく痛め、決勝レース出場は医師団に禁止されてしまった。けっきょくチャンピオンの座は、宿敵ピケの手に落ちた(ピケ73点、マンセル61点)。どこまでもツキがない、と言ってしまえばそれまでなのだが......  (写真下につづく)


ウイリアムズFW14/ルノーをドライブするマンセル。 
1991 FUJI TV 日本グランプリ プログラムより


ランキング4位、5位、2位、そして王者に!
1989年、フェラーリ・チームに移籍。が、「タイプ640」の調子が全体的に良くなく(特にミッション系のトラブルに泣かされた)、期待ほどの成果は上がらなかった(38点/ランキング4位)。翌年も5位に終わる。
91年、古巣ウイリアムズにカムバック。相棒リカルド・パトレーゼと共に大活躍、一時は破竹の勢いに乗るセナ(マクラーレン・ホンダ)を止めるかと思われたが、またしても勝利の女神は彼に微笑まなかった(ランキング2位)。
そして1992年、マンセルはウイリアムズFW15/ルノーを駆ってついにF1の頂点に立った(決定:ハンガリー・グランプリ/ハンガロリンク)。それは念願の、というより悲願の達成、という言葉のほうがピッタリの形容であった。
チャンプになる前のイギリス・グランプリでこんな光景が見られた。
超満員に膨れ上がったシルバーストン・サーキット(イギリス・グランプリ)で、このレースを完全に席巻したマンセルが、熱狂するファンの前に表彰台で男泣きに泣いたのである。初めて見せるマンセルの涙であった。
もちろん、この涙にはマンセルにしか分からない、それこそいろんな要素を含んでいたに違いない。

一転,CARTに出場、チャンプに
そのひとつの結果であろうか、ナイジェル・マンセルは1993年、つまりチャンプになった翌年、アメリカのCARTに出場しているのである。そしてチャンピオンに。
94年シーズンも途中までCARTで戦い、セナ亡き後ウイリアムズ・チームで4戦、翌95年はマクラーレン・チームのマシンにも乗っている。
そしてシーズン途中のスペイン・グランプリを最後に、16年間のF1(CARTも含む)生活にピリオドを打ったのである。
マンセルの一見不可解とも思われる行動は、巷間いわれたプロスト、そしてセナとの確執。各チームの待遇を巡っての相違。etc....それらもあったかも知れない。
いずれにしろ、レース界を引退したマンセルは、プロドライバーにならなかったらプロゴルファーになっていただろう、というほど好きなゴルフの道を選んだ。
現在は、イギリス・ウッドベリーにある広大なゴルフ場のオーナーで、世界一のゴルフ場にするため頑張っている。
***
ロータス、ウイリアムズ、フェラーリ、マクラーレンの名門F1チームで、「荒法師」の異名を頂戴するほどの激しい走りで、存在感をアピールしつづけ、世界にファンを数多く作ったマンセル。マンセルの前にマンセルなく、マンセルの後にマンセルなし。この言葉がピッタリとする名ドライバーのひとりである。
F1とCART両方のチャンピオンになったのはマリオ・アンドレッティ、エマーソン・フィッティパルディ、ジャック・ビルニューブ、そしてナイジェル・マンセルの4人であることを付け加えておこう。  (一部・自著[F1もの知り大百科」から転載)
第2回・完

ナイジェル・マンセル:出走187戦、優勝31回、チャンピオン1回


「伝説の名ドライバー列伝」第3回はジル・ビルニューブ
予定していますが、お知りになりたいドライバーがいましたら
下記までご一報を!
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 白井 景
motorracingspeciali@yahoo.co.jp

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