kei’s Essay

special section

私の原点
Motorcycle Racing World


タイトル写真
「1961 World Grand Prix Road Race
スタート前のセレモニー。手前にマイク・ヘイルウッド、その後ろにトム・フィリスの姿が見える。いずれもホンダ・チーム。

[The Race For Leadership/世界のランキングを求めて」 より


 Section1.

「時計ほどの精緻、そして迫力のマルチ・エンジン」

世界を席巻した2輪レーシング、その秘密とは......



ホンダレーシングマシンがグランプリに登場したとき、その高回転からくる高周波の排気音を称して「ホンダ・ミュージック」と言わしめたのは、モーターレーシング・ファンならよくご存じのことだと思う。
実は、このことはホンダの場合、2輪マシンから始まったことなのだが、その基本理念は現在のF1マシン{フェラーリ、ベンツなども同様}まで引き継がれている。
ホンダの2輪マシンは、250cc・4気筒,125cc・2気筒から始まり、250ccは6気筒{直列、以下同},125ccは5気筒、50ccはシングルから2気筒、350cc{かつてあったクラス}と500ccは4気筒へとマルチ化への道を歩んでいる。
50cc{あるいは25cc}を最小単室排気量とし、高圧縮・高回転から高馬力を生み出しているわけである。
50ccというのは、卵約1個分の容積。これにDOHCだから2本のカムシャフト、吸・排気バルブを装着{言い遅れたが、ホンダは当初は4ストローク}していたのだ。そのメカニズムはまさに時計ほどの精緻といわしめた。
この機構により、ホンダ2輪マシンはゆうに1万回転以上のエンジン回転と多段ミッシヨンで、結果的に「ホンダ・ミュージック」を生み出していたのだ。
いっぽう、2ストローク・エンジンを武器としたスズキ、ヤマハ陣営も早くから2輪ワールド・グランプリの世界に打って出ていた。スズキは50ccと125ccに、ヤマハは250ccと350ccのクラスに出場したのだ。
2ストロークでも高性能のパワーユニットに仕上げるためには、高出力が必要であることはいうまでもない。
が、これだけでは必勝マシンはできない。2ストローク・エンジンには、トルクを太らせることが重要である。このため排気管を膨張管{Expansion Chamber}として排気干渉を防ぐと共に、吸入方式も、それまでのマシンが採用していたピストン・バルブから、リードあるいはロータリー・バルブへと変更されていった。
ホンダと同様、2スト組もマルチ化への道を歩んだ。50はシングルから2気筒{試作では3気筒もあった}へ、125,250は4気筒{V型、スクエア}へと進化し、特に小排気量車は多段ミッション装備でその実力を世界に見せつけたのである。
私などは、ホンダの 6気筒と共にスズキのスクエア4、ヤマハのV4などが絞り出す高周波のエキゾーストノートが、今でも脳裏に焼き付いている。

Honda RC166/250cc Aircooled Straight6:左上
Yamaha RD05A/250cc Watercooled V4:左下
Suzuki RZ63/250cc Watercooled Square4:右下

phto:Each Works Team.


Section2.

マン島TT、そしてグランプリ
「それはサイレントな世界だった」



”1961 World Grand Prix Road Race”前後の記憶

写真:1961年西ドイツ・グランプリ250ccクラスにみごと優勝し、日の丸の国旗を高々と掲げた高橋国光選手。
[The Race For Leadership/世界のランキングを求めて」 より


人には誰にでも思い入れというものがある。
モーターレーレングの世界でも、たとえばF1なら、今なら「シューマッハだ、いやハッキネンだ、いやビルニューブだ」といった具合。マシンでも「フェラーリだ、マクラーレンだ、いやベンツだ」というように。

今の時代、正直言って、時間に合わせて
居間でテレビのスイッチを入れれば、迫力ある映像と音が、眼と耳に飛び込んでくる。放送の時間帯に都合悪ければ、録画しといて見たい時に見ることもできる。
現代では、こんなことはごく当たり前のことであり、なにを今さら、と言われても仕方ないところだ。
2輪世界グランプリでも、耐久レースでも、わが日本製マシンと日本人ライダーが大活躍しており、同じようにほぼオンタイムで知ることができる。

***
だが、それなりに歳をくってきた私には、こんなTV/VTRを見ている時でも時々、ストップモーションの絵が脳裏をかすめることがある。
例えばちょうど40年前、1961年前後にタイムスリップすることも、間々ある

高橋国光選手が、日本人初の日の丸の旗をホッケンハイム・リンク(世界グランプリ・ロードレース・シリーズ)に高々と掲げ、日本国国歌が流れた年である。
また、代表的なクラシック・イベントである同年のマン島TTレースでは、125ccレースに出場した37台のうち、ホンダ6台、ヤマハ4台、スズキ3台という内訳で、日本車が3分の1を占め、高周波でなる日本製マシン(2&4スト)のエキゾースト・ノートが私の頭を交錯した(と、感じている)。
実を言うと、私の2輪レース好きはこの1961年よりも、もっと古い。
それは1959年、「第3回浅間火山レース(最後の火山レース)」が行なわれる約3ヶ月前のことである。
ホンダが、日本で初めてイギリス・マン島(ツーリスト・トロフィー・レース=TTレース)にチームを送り込み、4人の日本人ライダーが「RC141」に乗り、その4台がすべて完走し、「メーカー・チーム賞」を獲得する快挙を成し遂げているのである。
谷口尚己:6位/銀レプリカ
鈴木義一:7位/銅レプリカ以下同
田中禎助:8位
鈴木淳三:11位の各選手である。
そして、この翌年にはスズキ・チーム(伊藤光夫、市野三千雄・16位、松本聡雄・15位/銅レプリカ)が、61年にはヤマハ・チームがマン島(伊藤史朗・6位)に相次いで出場、さらにグランプリも転戦している。
これらと共に1963年のマン島では、スズキの伊藤光夫選手が50ccクラスで日本人初優勝、これまたメインポールに高々と日の丸の旗を挙げているのも、忘れられない映像である。

***
不思議とこれらの絵はすべてモノトーンで、時にはニュースフィルムの如く、動く映像の場合もある。
1959年の、私の年齢は18歳だった。
当時購読していたクルマ専門誌でも、白黒グラビアで、日本人快挙の報は掲載されており、洋画好きの私は、映画館でもこれらのニュースを断片的に見たような気がする。
そんな環境の中から私は、2輪を含むモーターレーシングが好きになり、やがてそれが職業にもなっていった。ちなみに、当時の私の愛車は、ヤマハYA1(通称赤トンボ))だった。
情報を得るのは月に一度、それもイベントが行なわれてから、かなり時間が経ったものだ。
それでも、本の発行日には書店に走った。それくらい情報に飢えていた。
逆の言い方をすると、次のレースは、いつで、どこのサーキットで、誰がどのマシンで、どんな走りをするのだろうか.....といったことを、イマジネーションを膨らませて楽しんでもいたし、そんな想像の夢を見たことすらあった。
情報とは、そんなものであろう、と知るのは後年のことである。つまり、情報とは、一刻も早く知りたいものだし、かつ、もうチョッと後に取って置きたい、そんな期待感大なるものとも思っている。
職業としてからは、通信社からも、あるいはテレックスからも情報は逐一はいるし、知りたくもない悲惨な写真もいやと言うほど見た。
また、この頃と前後して日本にも国際サーキットが出来始め、肉眼で直接取材するようになり、いつのまにか”知ること”が当然、というふうになっていった。格好良く言えば、プロの報道マンになっていたのだ。
そして18歳の時の感覚は、次第に忘れていき、かなり永い月日が経った。

***
そして、もうひとつ、いいも悪いも当然のことながらこの頃は、すべてが「アナログ」の時代であった。
それがモーターレーシングの世界にも、コンピューター「デジタル」がジワジワと侵入し、レース環境も好む好まざるに関わらず、これに染まっていった(マシンと路面ミューの計算あたりからレースに採り入れられた、と記憶している)。
私も、モーターレーシングとコンピューターの関わり合いには人一倍興味を持っていた。
しかし、今日のような急速な進歩を誰が予想し得ただろうか。
そんなことにはお構いなく21世紀にはいり、日にちは経っていく。
以上の話は、情報世紀と言われる21世紀に、そぐわないような話題とは分かっている。
アナログ・レコードが静かなブームを呼んでいると聞く。
そんな話を聞いて、こんな一文を記してみた次第。




Motorcycle Racing World
part2.


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