Replay! F1 Dramtic Race sr.1



Italy Grand Prix 1971.9.5 .
「0秒18間」に、4車が鼻の差ゴール!
 at monza circuit


競馬のゴールシーンでは、よく知られている”写真判定”。写真判定こそなかったが、1971年9月5日のイタリアは、モンツァ・サーキットで行なわれたイタリア・グランプリは、ゴールラインに0秒18のタイム間に4台のマシンが飛び込む、文字どおり”鼻の差”のレースであった。5位でさえ、1位との差は0秒61,さらに1位と2位の差は、実に0秒01という、まさに形容しがたい鼻の差のゴールシーンであった。しかも、この日の優勝者は、これまで一度も6位以内に入賞したことのないドライバーで、伏兵による大番狂わせの一戦といえた。惨事を含め、数々のドラマと歴史を残してきた高速コース、モンツァ。そのうちの記録上での一戦、1971年9月5日を再現する。


 予選トップはC.エモン/マトラ・シムカ
 「1971年F1世界選手権シリーズ」第9戦は、驚異的高速で有名なモンツァ・サーキットで開催された。
 71年チャンピオンは、既にティレル・フォードに乗るジャッキー・スチュワート(スコットランド)に決まっているとはいうものの、各チームからバラエティあふれるマシンがモンツァに集結した。
 今では、懐かしいマシンとドライバーの面々なので、エントリーの状況から話を進めよう。
 まず地元フェラーリ・チームは、完成されたマシン、ボクサー(水平対向12気筒)・エンジン搭載の312B2を持ち込んだ。ドライバーはジャッキー・イクス(ベルギー)とクレイ・レガゾーニ(スイス)のふたり。
 チーム・ロータスは、このモンツァで、前年にヨッヘン・リントを失っているためもあって、レシプロ・エンジンカーに換えて、珍しいガスタービンカーのロータス56Bをエマーソン・フィッティパルディ(ブラジル)のドライブで出走させる。
 ティレル・チームは、王座を決めているスチュワートと若手の有望株フランソワ・セベール(フランス)で、OO3フォードで出走。
 マトラ・チームは、クリス・エモン(ニュージーランド)のみがマトラ・シムカMS120Bをドライブする。
 BRM(ブリティッシュ・レーシング・モーター)は、5台の”ヤードレー”(化粧品メーカー)カラーのP153/P160マシンを持ち込んだ。ドライバーは、ジョー・シファート(スイス)、ピーター・ゲシン(イギリス)、ホ−デン・ギャンリー(同)、ヘルムート・マルコ(オーストリア)の4人。
 マーチは、ロニー・ピーターソン(スウェーデン)、ナンニ・ガリ(イタリア)、アンドレア・デ・アダミッチ(同)の3人が711に乗り、プライベートでアンリ・ペスカロロ(フランス)、マイク・ビュートラー(エジプト)、ジャン・ピエール・ジャリエ(フランス)の各選手が711ないし701に乗る。
 ”ビッグ・ジョン”ことジョン・サーティーズ率いるチーム・サーティーズはTS9を自身(イギリス)と、2輪レースの王者、マイク・ヘイルウッド(同)とロルフ・ストメレン(ドイツ)がドライブする。出場者は以上24人。
 公式予選は、9月2日から4日までの3日間(木曜日〜土曜日)行なわれた。
 この結果、マトラ・シムカのクリス・エモンが1周5.750kmのコースを、1分22秒40のタイムでポールポジションを決め、2位はフェラーリのジャッキー・イクスが1分22秒82で取った。
 3位にジョー・シファート、4位にホーデン・ギャンリーのBRM組が占め、以下24台が予選を通過した。

 集まった観衆は20万人!
 「ドラマチック・レース」の舞台となるモンツァ・サーキットは、ミラノ市北東・約15kmの、市外の公園の中にある。
 1922年に作られ、1963年に至るまで、ここの最大の特徴はハイスピード・バンクにあった。が、今はもちろんない。
 バンクはなくなったが、モンツァが高速コースであることに変わりはない。したがって、アクシデントもこれまでかなりあった。フォン・トリップスが、そしてアルベルト・アスカリが、さらにヨッヘン・リントなどが、悲惨な死を遂げている。
 いっぽうでイタリア人は、陽気で熱狂的であるとよくいわれる。
 モータースポーツの世界も例外ではない。イタリア製のマシンで、しかもドライバーがイタリア人であれば、それはもう狂信的というか、盲信的になるのだ。これが、どちらか一方でも、それは大変なものだ。
 決勝レースが行なわれた1971年9月5日も同じだった。
 予選2位と8位とはいえ、フェラーリ312B2が2台、さらにイタリア人ドライバーのナンニ・ガリ、デ・アダミッチが出場するとあって、20万人に近い大群衆がサーキットに押し掛けたのである。


1971年9月5日/イタリア・グランプリのスタートは切られた!

 めくるめくハイスピード・レースの中で
 55周・316.250kmの波乱の幕は開いた。4列めから実にうまく飛び出したレガゾーニ/フェラーリが、1周を終わってトップで帰ってきた。つづいてイクス/フェラーリ、エモン/マトラ、シファート/BRMの順。早くも観衆は総立ちだ。
 が、チャンピオンを決めているスチュワート/ティレルはさすがに強く、8周めのスタンド前には首位で現れた。
 9周めにはレガゾーニが巻き返し、その座を奪取する。その次の周のリーダーはピーターソン/マーチが........。壮烈なトップ争いが序盤から始まった。
 15周め、こんどはセベール/ティレルがトップ。同じくティレルのスチュワートが2位。3位はピーターソン、4位にヘイルウッド/サーティーズ。
 波乱が起こったのはこの後。
 スチュワートのティレルがエンジン・トラブルに陥り、イクス、レガゾーニの2台のフェラーリも同じくエンジン・トラブルで相次いでリタイアしたのである。超ハイスピード・レースにエンジンが悲鳴を上げたのだ。
 主役級の彼等の脱落で、レースはさらに混乱の度合いを増す。
 この後、ピーターソン、セベール、ヘイルウッドの3者が猛烈なデッドヒートを繰り広げるのだが、この3車のパワーユニットはすべてフォードDFV・V8。
 しかしながらボディシェイプ、なかんずくノーズカウルは3車3様で変わっていて面白い。マーチが卵をつぶしたような丸味、ティレルがダルなスポーツカー・ノーズ、そしてサーティーズ
がプラント・ノーズといわれる直線的なもの。
 それはさておき、中盤にかけて、この3選手の先陣争いにシファート、ギャンリーのBRM勢、エモンのマトラがさらに加わり、レースは混迷を深める。
 折り返し点に差し掛かった頃の、27周めのトップはヘイルウッド。28周めはシファート........。終盤にかけても、レースはもつれにもたれる。
 互いにスリップストリームを掛け合い、先頭に躍り出るのだ。
 ピーターソン〜セベール〜ヘイルウッド〜エモン〜ピーターソン〜ヘイルウッド........と、すさまじく入れ替わってきた首位の座。そこに突然のように割ってはいってきたドライバー/マシンがあった。53周めのことである。

 
 BRM・P160を操るピーター・ゲシン

 伏兵ピーター・ゲシンが美酒
 まさに伏兵の登場であった。ピーター・ゲシンがその選手で、マシンはBRM・P160である。
 しかし、ピーター・ゲシンのF1ドライバーとしての知名度は正直言ってそれまでは低く、前年(1970年)カナダで6位(マクラーレン/フォード)にはいっているとはいうものの、このイタリア・グランプリ前にBRMチームに移籍したばかりの選手であった。
 そのゲシンが乗る、ヤードレー・カラーにデザインされた白いBRMがトップでグランドスタンド前を駆け抜けたのだ。
 が、次の54周めはピーターソンがトップ。重なるようにしてセベール、ヘイルウッドがつづき、ゲシンもそのすぐ後を走り去る。
 見たこともないような熾烈なトップ交代劇に観客は湧きに湧く。全員総立ちなのはいうまでもない。
 あと1ラップ、1分半後に最初に現れるドライバー/マシンは誰か? そしてファイナルのゴールラインをかすめ去るのは誰か?
 最終コーナーを立ち上がってくる3台のマシンが観衆の目にまず飛び込んできた。白、赤、青色の3台だ。すぐ後に、さらに2台のマシンがつづく。
 そして、チェッカードフラッグを3台のマシンが同時にかいくぐった、かに見えた。しかし白いマシンのコクピットから右手が高々と挙がっているのも見えた。
 戦い終わって2台のマシン、つまりゲシンのBRMとピーターソンのマーチが共に競技長の所へゆっくり進んだ。競技長から優勝者にフラッグが渡されるのだ。競技長はゲシンの所へ寄った。
 こうして55周・1時間18分12秒強の戦いは終わった。平均時速にして242kmオーバーの、ハイスピードの中での戦いでもあった。そして最高にうまい美酒を呑んだのは、グリッド11位から走った伏兵ピーター・ゲシンであった。
 1位と2位の差、実に0秒01,2位と3位の差0秒08,3位と4位の差0秒09、4位と5位の差0秒43という、まさに”写真判定”の勝負であった。

 地でいく”接戦のモンツァ”
 この日のヒーロー、ピーター・ゲシンは、この年1回のみの入賞でポイント9,ランキング9位であった。
 劇的なシーンで幕を閉じた1971年イタリア・グランプリであったが、実は1967年のレースでも、わがホンダF1/ジョン・サーティーズがブラバム/ジャック・ブラバムと接戦を演じ、0秒02差でこれを下している。さらに1973年と翌74年、ロニー・ピーターソン(ロータス・フォード)がエマーソン・フィッティパルディ(ロータス・フォード、マクラーレ・フォード)と1,2位を争い、なんと2回共0秒80という僅差の決着をみているのである。
 まさに”接戦のモンツァ”代名詞どおりの戦いが繰り広げられているのだ。(自著より一部転載) 
                             (第1回・完)

 1971年イタリア・グランプリ・レース結果

 1位 P.ゲシン BRM・P160 所要時間:1時間18分12秒60
      平均242.615km/h 55周(以下同)
 2位 R.ピーターソン マーチ711      1時間18分12秒61
 3位 F.セベール ティレル003       1時間18分12秒69
 4位 M.ヘイルウッド サーティーズTS9  1時間18分12秒78
 5位 H.ギャンリー BRM・P160      1時間18分13秒21
 6位 C.エモン マトラ・シムカMS120B  1時間18分44秒96
  最高ラップ:H.ペスカロロ/マーチ711 1分23秒80 
      平均247.02km/h(9周め)



  
Peter Gethin
 1940年、イギリス出身。F3,F2
 で腕を上げ、F5000レースにステ
 ップアップ。そしてマクラーレン・チ
 ーム入り。1971年、72年とBR
 Mチーム。その後、F5000へ戻り、
 やがてマネージャー役。F1出走
 30回、優勝1回、6位・2回・トー
 タル11点。