連載:伝説の名ドライバー列伝/第4回
3度の”チャンプ”に輝く ネルソン・ピケ が歩いた道
(Nelson Piquet)


ピケを”気分屋”と評する人は少なくなかった。が、3度も世界チャンピオンに輝いた彼が、
いうまでもなく”その時の気分だけ”で歴史に名を残せるはずはない。
レース展開に応じた判断力の良さはピカ一で、マシンを熟知したシャープなドライビングも、これまた一級品であった。
そんなネルソン・ピケの生き方と走りの始終。


photo:Camel Team LOTUS



お世辞にもマスコミ関係者に受けがいいとは言えなかったネルソン・ピケ。
そして表面上、センシビリティでナィーブな感じを受けるピケ。
が、彼はたしかに巷間言われるような気分屋の面も持ち、かなりのドン・ファン(古い表現で恐縮!)でもあった。
いってみればどうでもいいことなのだが、けっこう、そんな性質が、レースにも現れ、またファンもそれが魅力だったというのだから....。
以下のストーリー構成上、無視できないことなので冒頭に触れた。




テニスに非凡な才能を持ち合わせていたが......

それはさておき、ネルソン・ピケ(Nelson Piquet)は、1952年8月17日、ブラジルはリオ・デ・ジャネイロで生まれた。
父親は元テニス・チャンピオンで、国会議員(下院)という恵まれた環境であった。
その父の熱心な指導を受け、彼は
テニスの腕を上げ、16歳の誕生日には父を負かすまでになっていた。
その褒美としてピケは、サンフランシスコ近郊のハイスクールに1年間留学することができた。
だが彼が、そこで学んだものは、勉学でもテニスでもなかった。
モータースポーツの魅力に取り憑かれてしまったのだ。
挙げ句、レーシング・チームのワークショップにいる時間のほうが長くなっている始末だった。
ブラジルに戻ったピケは、カートレースとスピードショップに入り浸り、
それを理解できない親からは、一切の経済援助を断られてしまった。
ピケの、4輪のデビュー・レースは、1971年のサルーンカー(ツーリングカー)であった。
翌72年、VW(フォルクス・ワーゲン)車ベースのスポーツカーで選手権を獲得する。
実はピケの本名は、ネルソン・ソウト・マイオールといい、ピケというのは母方の姓である。
彼は、モータースポーツを好かない(危険過ぎるという理由)親を、これ以上傷つけないために、
ピケの名でレース出場しており、この時以降ネルソン・ピケが通り名となったのである。
この後も、両親のモータースポーツ反対はつづき、しかたなく1年間、ピケは大学に行った。
だが、彼はやはり勉学よりもモータースポーツが、頭の中を支配し、1年間で退学してしまった。
1974年、ネルソン・ピケは友人と共同で買い入れたスーパーV(VWベースのフォーミュラカー)でレースに出場した。
が、この年、父親のソウト・マイオール・シニアの死もあってたいした活躍はできなかった。
しかし翌々年の1976年には圧倒的な勝ち方で選手権をものにした。
友人の中にF3レースの経験者がいた。
ピケは、この友人からモータースポーツのあらゆる知識を吸収した。
もちろん、マシンのメンテナンス、セッティングもすべて自身でやった。エンジン、ギヤボックス等のバラし、組立もひとりでやった。
結果的に、このことが、この後の、ピケの長いモータースポーツ生活に活きることになるのである。
ネルソン・ピケは、祖国の英雄、エマーソン・フィッティパルディ(世界チャンピオン:1972年、74年)に大きな影響を受けていた。
そのエマーソンの勧めもあり、ピケは意を決して本場ヨーロッパに渡った。
1977年のことである。

F3選手権・戦いの真っ最中にF1乗車

1977年、ネルソン・ピケはヨーロッパF3選手権に出場するため、ブラジルを後にした。
ピケは英語ができなかった。このため、イタリア人のメカニックと共に転戦したのだ。
最初のマシンはマーチ733だったが、戦闘力はラルトのほうが高いのが分かり、
ホテル住まいをやめ、足に使っていた愛車も売り払い、ラルトとスペア・エンジンを手に入れたのだ。
実はピケは、結婚したての新妻も同伴していたのだが、彼女をブラジルに帰し、
男ふたり、バスに住みながらのレース生活を実践したのである。
F3デビュー年の成績は、18レース(17コース)に出場し、ランキング3位であった。
けっしていい環境とは言えない中での3位は、誉められていいに決まっている。
が、同じブラジル人の若手選手が、
イギリス・フォーミュラ・フォードのチャンピオンになったことのほうが、より評判(特にブラジルで)になっていたのだ。
このことが、ピケを翌年(1978年)に発奮させる材料のひとつになったことは間違いない。
事実、ピケは、ラルトRT1/トヨタで大活躍を見せ、楽々とヨーロッパF3選手権の王者になったのだ。
FFチャンピオンだった前記のブラジル人選手も軽く蹴散らしていた。
それほどピケの走りはすばらしかったようだ。
F3選手権シーズン中、F1第10戦/西ドイツ・グランプリにエンサインF1で、さらにプライベート・チームながら、
マクラーレンM23で第12戦/オランダ・グランプリと第13戦/イタリア・グランプリに、
そして第14戦/カナダ・グランプリにブラバムF1で出場するという、夢みたいな話を実現させているのだ。
結果は、記すまで(いずれも早々にリタイア)もないものだったが、
少なくともF3を戦っている最中に、実戦のF1にステアリングを握ったドライバーは、まずそんなにはいないだろう。
事実、ピケのF1での走りを熱心に見守る男がいて、その人物がピケの将来を決定づける要因となったのだから.....。




開幕戦でクラッシュ、半年間フイ。だが....

その人物とは、ブラバム・チームの主宰者バーニー・エクレストン氏(FOCA=F1製造者協会会長)で、彼に3年契約を申し出たのだ。
仮に、同氏に他の思惑ががあったとしても、ピケのドライビングに光るものがなければ、こんな契約を結ぶはずがない。
この時点でのブラバム・チームのドライバーは、ニキ・ラウダとジョン・ワトソンで、結果、
ピケは、ラウダに次ぐナンバー2ドライバーとなるのである。ピケに異論があるはずはなかった。
こうして1979年のF1シーズンは始まった。
が、ピケは1月21日の開幕戦/アルゼンチン・グランプリ(ブェノスアイレス)に
勇躍ブラバムBT48/アルファロメオV12のステアリングを握って出場したが、
張り切り過ぎたわけでもないだろうが、1周めにクラッシュしてしまったのだ。
ドライビングに致命傷の、くるぶしを傷めたのだ。
傷が癒えてF1戦線に復帰(?)したのは7月であった。
半年間の空白を埋めるべく、ピケは頑張った。
その甲斐あって、この年、ピケは第12戦/オランダ・グランプリ(8月26日)に4位に入賞し、初のポイントを挙げることができたのだ。
BT48は、ブラバム初のウイングカーではあったが、低パワーのアルファ・エンジンは、また安定性をも欠き、
名手ニキ・ラウダをもってしても、年間で4ポイントしか挙げられなかったのだから、ピケの4位は立派なものとも言えた。
ネルソン・ピケは、レースの合間にはブラバムの工場(文字どおりワークス)に行き、
テストカーのドライブはもちろん、手伝いなどを含め、なんでもやった。
反対にビジネスに徹するニキ・ラウダは、工場を訪れることもほとんどなく、仕上がったマシンをドライブするプロだったようである。
そして1980年、アルファ・エンジンをあきらめ、DFVエンジンに戻したブラバムBT49は、息を吹返す活躍を見せる。
設計者ゴードン・マーレーは、テストで走り込んだピケのデータをもとに、改良に改良を重ね、BT49を実戦の場に送り込んだのである。
1979年末、ニキ・ラウダは勇退していた。ナンバー1の座は、ピケに躍り込んだ形だった。
ピケ/BT49は、開幕戦のアルゼンチンに2位、第3戦の南アフリカに4位、そして第4戦の東アメリカ・グランプリ
(3月30日、ロングビーチ)に、ポールを取ったピケは、その勢いで初の優勝を飾ったのである。
さらにピケは、第6戦/モナコ・3位、第7戦/フランス・4位、第8戦/イギリス・2位、第9戦/ドイツ・4位、
第10戦/オーストリア・5位、第11戦/オランダ・優勝、第12戦/イタリア・優勝と、
波に乗った進撃を続け、ポイント54を挙げ、ウイリアムズのアラン・ジョーンズに次ぐランキング2位となったのである。


ブラバムBT49を操るネルソン・ピケ。

photo:AUTOSPORT YEAR ’79/’80


1981年、チャンプ確定と共に確執も氷解

翌1981年。ブラバムは、BT49から進化したタイプ49C/DFVのウイングカー、
いっぽうウイリアムズも、これまたウイングカーのFW07を進化させたFW07C/DFVでシーズンに臨んだ。
前年チャンピオンのアラン・ジョーンズ(オーストラリア)は、この07Cを駆る。ピケは、言うまでもなくブラバム49Cだ。
ライバルとなった、このふたりに、リジエJS17/マトラMS81に乗るジャック・ラフィー(フランス)と、
ウイリアムズのカルロス・ロイテマン(アルゼンチン)が、からんで進行し、最後までもつれた。
特にピケとジョーンズとの争いは熾烈を極めた。
閑話休題。
前年までのピケは、いわば優等生のピケという感じであった。だが、”人間(エゴイスト?)ピケ”の本領は、この年あたりから発揮される。
80年シーズンにも多少現れていた、ジョーンズとピケの不和は、この年モロにむき出しとなったのだ。
やれ、「ジョーンズが、抜けっこないところで強引に突っ込んできた」
やれ、「ジョーンズはフロント・タイヤを、俺のマシンのリヤ・タイヤにぶつけてきた。そのためバリヤーに突っ込んでしまった」
と、まあ、こんなふうにまわりの人間に、誰れかれなく不満をぶつけていた、と関係者は当時を振り返って語る。
いわばピケは、この頃、”エゴむき出しドライバー”と、まわりから見られ始めたのである。
ベルギーのゾルダー、モナコなどで、この感情はむき出しになっていた。
だが、とにもかくにも、ピケは優勝3回(アルゼンチン、サンマリノ、ドイツ)、2位・1回、3位・3回等で総得点50を挙げ、
ロイテマン49点,ジョーンズ46点、ラフィー44点を、いずれも鼻の差に抑えて初のワールド・チャンピオンの座に着いたのである。
しかしながら、最終戦のアメリカ・グランプリ(ラスベガス)で、ピケが5位にはいり、
貴重な2点を加えて(ロイテマンが6位以下となったため)王者となった彼は、表彰台で、このレースに優勝したジョーンズと
強く抱き合い、それまでの確執と感情的なもつれは、チャンプ確定と共に、この時に雲散霧消した。
新しい世界チャンピオン誕生の記者会見場に、ピケはガール・フレンドから贈られた動物の縫いぐるみを持って登場、
大勢従えてきたブラジル人取材陣を主としたやりとりにポルトガル語で、延々1時間以上もしゃべりまくった。
うれしさを正直に披瀝した、と言ってしまえばそれまでだが、
夫人以外の女性遍歴、マスコミ嫌いの一片もこのあたりから、のぞき始めたのも事実である。

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ターボ・パワー戦争序曲のときに、ピケが2度めの王者

1982年。ブラバム・チームは、ルノー(80年)、フェラーリ(81年)に次いで、ターボ・エンジン採用に踏み切った。
タイプBT50がそれで、BMWと共同開発した直4エンジンを搭載したのだ。
が、これはブラバム・チームとピケにとっては、勝負が裏目に出た。
ピケは、カナダ1勝のみのトータル・ポイント20で、ランキング11位に終わったのだ。
新加入のリカルド・パトレーゼ(イタリア)も1勝(ただし、こちらはDFVエンジン)であった。
この年は、生みの苦しみをいやというほど味わったブラバム・チームではあったが、
ピケとチーム・クルーの努力の甲斐あって翌1983年は、同チームに勝利の女神が微笑んだ。
というのも、この年からレギュレーションでベンチュリーカーが全面禁止となり、
その対策として前後ウイングでダウンフォースを稼ぐ方式を採ったBT52(設計者は同じくゴードン・マーレー)が、
パワーアップされたBMWエンジンと相まって4勝を挙げたのだ。
ターボ組のフェラーリ、ルノーも共に4勝を挙げた。
しかし、優勝・3回、2位・3回、3位・2回、4位・2回とコンスタントにポイントを稼いだネルソン・ピケが、
アラン・プロスト(フランス)のルノー・ターボに2点の差をつけ、59点で2度めの世界チャンピオンを獲得したのである。
円熟味を増したピケのテクニックが、これを支えたのはいうまでもないことである。
3位は、ルネ・アルヌー(フランス、49点)、4位もパトリック・タンベイ(同、40点)のフェラーリ・ターボであった。
ちなみに、83年コンストラクターズ・チャンピオンシップは、フェラーリ・89点、
ルノー・79点、ブラバム・72点の順であった。
が、BMWターボの栄華の時はここまでだった。
翌1984年には、マクラーレンMP4/2に積まれたTAGポルシェ・ターボV6の威力はものすごく、
ニキ・ラウダとアラン・プロストの手により年間・12勝を挙げてしまったのである。
ブラバムBT53/BMWに乗るピケがカナダと東アメリカに2勝、残る2勝は、ミケーレ・アルボレート
(イタリア、フェラーリ126CターボV6)とケケ・ロズベルグ(フィンランド、ウイリアムズFW09B/ターボ・ホンダV6)とで分け合った形であった。
まさに時代は、ターボ戦争真っ盛りといった感じとなった。

強烈な個性同士がコンビを組む

1985年のF1界は、ターボ一色となった。
主だった出場チームほとんどがターボ・エンジンを搭載したからだ。
結果、マクラーレンMP4/2B・TAGポルシェV6に乗るアラン・プロストが5勝で、文句なしのチャンピオン。
ウイリアムズFW10・ホンダV6が、ナイジェル・マンセルとケケ・ロズベルグで併せて4勝、
フェラーリ156/85・V6が、ミケーレ・アルボレートで2勝。
さらに、ロータス97T/ルノーV6が、新加入のアイルトン・セナで2勝、
ブラバムBT54/BMW・V6のピケが1勝---と、
ターボ旋風でF1界は、まさに群雄割拠の状態であった。
そして1985年を最後に、ネルソン・ピケはブラバム・チームを去った。
強烈なホンダ・ターボ・パワーを搭載したウイリアムズ・マシンの、魅力の虜となったのである。
余談だが、この頃、(過給圧を上げた)予選用のスペシャル・エンジン(ホンダ、フェラーリ、ルノー)は、まさに1300馬力に達していたという。
TAGポルシェを含め、この手のマシンに乗らないと、先ず勝ちめはない、という状況であった。
ピケのコンビは、ナイジェル・マンセルであった。
したがって、というか、必然というか、こんどのピケの確執(?)の相手は、マンセルということになった。
1986年の優勝者を記す。

第1戦:ブラジル ピケ ウイリアムズFW11・ホンダ
第2戦:スペイン セナ ロータス98T・ルノー
第3戦:サンマリノ プロスト マクラーレンMP4/2C・ポルシェ
第4戦:モナコ プロスト
第5戦:ベルギー マンセル ウイリアムズ
第6戦:カナダ マンセル
第7戦:アメリカ:セナ 
第8戦:フランス マンセル
第9戦:イギリス マンセル
第10戦:ドイツ ピケ
第11戦:ハンガリー ピケ
第12戦:オーストリア プロスト
第13戦:イタリア ピケ
第14戦: ポルトガル マンセル
第15戦:メキシコ ゲルハルト・ベルガー ベネトンB186・BMW
第16戦:オーストラリア:プロスト

以上の結果から分かるように、ウイリアムズはピケ4勝(69点)、マンセルが5勝(70点)の計9勝したにもかかわらず、
プロストの4勝(72点)に、85年に続くチャンピオンの座を取られてしまったのだ。
コンストラクターズ部門は問題なくウイリアムズのものになったのだが.....。
ピケとマンセル。いうなら、個性がより強いふたりである。
意識するな、というほうがムリというものだろう。
なにせ、同じチームでゴールラインをいち早く飛び込むかを競っているふたりである。
敵対心こそ表に出さなかったふたりだが、翌1987年は、様相が違った。
モロに両者がチャンピオン争いをしたのだから、いい意味でも、悪い意味でも熱くならないわけがない。
しかも、この決戦の場は、日本の鈴鹿サーキットが舞台であった。
1987年という年は、日本のF1ファンにとっては忘れられない年である。
テクニカル・コースの鈴鹿サーキットでは、初のF1、
日本では1977年の富士スピードウエイ以来のF1開催である。
しかも中嶋悟選手がロータスからデビューしたその年である。盛り上がらないわけがない。
しかも、強力なパワーを誇るホンダ・エンジンを搭載したウイリアムズ・マシン同士の、
強烈な個性の持ち主同士の対決でもある。
第15戦日本グランプリ開始前の得点は、ピケ76点(有効得点=全16戦中11戦の高位得点の合計。ピケ73点)、マンセル61点。
鈴鹿を含め残り2戦。まだ、マンセルにはチャンスが残っていた。
が、決着はアッケなく着いてしまった。
得点で追い上げ急なマンセルの勢いは波に乗っており、
鈴鹿でも元気よく、公式予選第1日めを飛び出していった彼は、
S字コーナーでスピン、クラッシュしてしまったのだ。
あいにく、マンセルは背骨を痛め、本番出場をあきらめざるを得なかったのだ。
こうしてピケに3回めのワールド・チャンピオンの座が転がり込んだのである。


ウイリアムズFW11B・ホンダを駆るネルソン・ピケ。


ピケ像を探る

マスコミからは、”ツキまくるピケ」”などとも書かれた。
が、ツキも「勝負」には大事な要素である。
1度めのチャンピオンの座---
ほぼ完成されたウイングカー+安定感のDFVエンジンで、ロータス、マクラーレン、ティレルといった主力チームが不調の時期であったこと。
2度めのチャンピオンの座---
TAGポルシェ、ホンダ・ターボなど、強力なエンジンが出る前の時期に安定感が出たBMWターボに乗れたこと。
3度め---
最もコンペティティブなウイリアムズ・ホンダに乗れたこと。
確かに、これらは、紛れもない事実である。
だが、”ツキ”だけで片づけては、あまりにピケに失礼な話だ。
確かに、ピケには、ポールポジションの位置からブッち切りで勝つ派手な強さは、正直言って感じられない。
グリッド位置を気にせず、むしろ追い上げが信条のようにさえ見える。
(メカニズムに精通し、これを活かしたクールな走りと、計算し尽くしたのではないかと、思えるレース展開をする)
これらから、”底知れないしたたかさ”を感じさせるのだ。
(粘り強く、シュアーなドライビングが結果を裏打ちしている)
でなければ、3度もチャンプになれるわけがないのだ。
と、こう記してきても、ピントこない人も多いと思う。
最もネルソン・ピケというドライバーの、走りの性格をよく表していたのが、3度めのチャンプになった1987年の戦いぶりだと思う。
そこで、この年のピケの戦いぶりを、再度振り返ってみる。
まず、初戦ブラジルは2位でスタートした。
ところが第2戦サンマリノで予選中に、高速スピードでクラッシュ、本番欠場。
第3戦ベルギーはリタイア。
第4戦モナコから、第7戦イギリスまで4連続2位。
この時点でプロスト、マンセル、セナの3選手はいずれも2勝ずつを上げているのだ。
誰もが、この年のチャンピオンはこの3人の中から出ると思った。
ところが、第8戦ドイツ、第9戦ハンガリー、第11戦イタリアと(第10戦オーストリアは2位)、
3戦共、首位走行中の選手が途中リタイアで、ピケの優勝となっているのだ。
第12戦ポルトガル3位、第13戦スペイン4位。第14戦メキシコ2位。
こうしてピケは、総得点76点、有効得点73点で第15戦日本を迎えたわけである。
61点のマンセルが2位に着けているのは先に記した。
こう結果を書いてくると、もうお分かりだろう
偶然とはいえ、ピケは特にこのシーズンは、執拗なまでに入賞を意識して完走を重視していたことが分かる。
もちろん、出場ドライバーは、すべてが入賞めざして戦っているわけだが、
ピケの場合は、これに、指摘されるような”ツキ”が味方していたといっても過言ではないだろう。
というわけで、前記のピケの天分がこれに加わって3度めのチャンプになった、と私は分析している。
ちなみに、86年のチャンプ争いの時、ピケはここが勝負時と見て、メキシコ戦を前にして、
現地に向かう飛行機の中で、高地にあるロドリゲス・サーキットの希薄な空気を想定して予圧室で調整したという。
そこまで努力しても、ピケは同レースで4位。ランキングでは3位だったのである。
F1チャンピオンになることが、いかに大変なことか、こんなことからもかい間見ることができよう。
けっしてフロックでは王者にはなれないのである。

最後に見せた走りの真価


キャメル・ロータスとピケ。

しかし1988年シーズン(ターボ・エンジン最後の年)、セナがロータスからマクラーレンに移籍したため、
変わってピケがロータス入りとなった。
パワーユニットは、それでも強力なホンダ・エンジンがマクラーレンと共にロータスにも搭載されている。
が、シャシー性能がいかんせん劣り、ロータス100Tに乗るピケの成績は、これまでからは想像もつかないほど悪いものだった。
(3位・3回、4位・1回、5位・2回、6位・1回等)
さらに89年は、NA元年ということもあり、ロータスはジャッド・エンジンを積まざるを得なかったこともあり、
名デザイナー、パトリック・ヘッドの手にかかったタイプ101ではあったが、
ピケの成績は4位・2回、5位・1回、6位・1回等という惨憺たるものであった。
ベルギー・グランプリでは、ピケと中嶋選手が共に予選落ちという屈辱も嘗めている。
ピケ嫌いのマスコミの一部からは、この時ばかりと責められてもいる。
ピケもここまでか、と思われていた1990年、不死鳥のように蘇る。ピケ38歳の時である。
心機一転、ベネトン・チームに移籍したピケは、タイプ189/190・フォードで優勝・2回、
2位・1回、3位・1回、4位・2回、5位・4回、6位・2回等の好成績を挙げ、ランキング3位(43点)となっているのだ。
特に、シルバーストーンでのイギリス・グランプリの猛烈な追い上げ、
最終戦・アデレードでのオーストリア・グランプリでの、ナイジェル・マンセル(フェラーリ641/2)との攻防は、
今でも関係者の語り草となっている激しいものであった。
余談だが、この年のピケとベネトン・チームとの契約は”ポイント制”であったといわれる。
そしてピケは、現チャンピオン、ミハエル・シューマッハとコンビを組んだ1991年を最後に、長かったF1生活にピリオドを打った。
**
冒頭にネルソン・ピケは”気分屋”と書いた。
好・不調を顔に出す神経質な面を持っていたことも確かである。
イライラしていた時などは、ヒゲぼうぼうでサーキットに姿を現すのもしばしばだった。
セーターに、破れたジーンズで優勝の記者会見場に現れ、報道陣の質問にも人を食った答え方をして
ひんしゅくを買ったことも何回もあった。
女性関係も激しく、いっぽうで自分の子供もこよなく愛した。
地中海には大型クルーザーを置き、世界に旅立っている。
クール、エゴイストと言われ、いっぽうでヘリコプター事故に遭ったアレッサンドロ・ナニーニの
介護に親族以上の献身ぶりもしている。
ブラジルの孤児施設に多大な寄付も行なった。
ともあれ、ネルソン・ピケは、レースではチャンスをものに出来る、強さを持ったドライバーであり、
そしてまた、あらゆる意味での”20世紀最後のロマン派”ドライバーだった、と結論付けて差し支えなかろう。
(了)


ベネトンB190とピケ。
photo:ウイリアムズ、ロータス、ベネトンの走り/S.Itoh、他

「伝説の名ドライバー列伝」第5回はニキ・ラウダ
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 白井 景
motorracingspecial@yahoo.co.jp

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